届を認《したた》めておりました折柄、タキシー運転手姿の樫尾が、転がるように駈け込んで参りまして、夫志村の変死を告げ知らせました。そうして息せきあえぬ早口で次のような忠告を致しました。
「この事件には必ず狭山様の御出勤を見るであろう。そうとなれば貴方《あなた》がた御夫婦の今日までの売国的行動も水晶のように見透かされてしまうであろう。外務省の欠勤届なぞいう呑気《のんき》なものを書いている隙《すき》はないのだ。一刻も早く樫尾が指図する通りにして外国に逃れて時節を待つ考えを定《き》められよ。元来、J・I・Cの首領W・ゴンクール氏はずっと前から貴女《あなた》に懸想《けそう》していて、無理にも志村氏を殺そうとしているのだ。そうして人質に取った嬢次殿を枷《かせ》にして是非とも貴女を靡《なび》かせようと謀っている者である。だから貴女の生命《いのち》がなくなった暁《あかつき》には、必要もない人質の嬢次殿の運命が、どのような事になって行くかは、考える迄もないであろう。これまで打ち明けた上は何もかもお解りであろう。樫尾の言葉が真実である事を明かに覚られたであろう。とにも角にも一刻も早くこの教会から姿を消す事が肝要である。その方法というのは取り敢えず姿を改めて満洲王|張作霖《ちょうさくりん》の第七夫人と偽り、今夜一夜だけ帝国ホテルの客となって新聞記者を驚かす。それから明朝堂々と東京駅を出発し、下関から大連航路のメイルボートに乗り込み、大連から上海《シャンハイ》に逃れる方法がある。狭山氏の眼を逃るるにはこの方法より以外にない。早く早く」
 と妾を促しまして自動車に同乗し、銀座から神田に参り、衣類その他の装身具等を買い整え、再び銀座の美容院に参るべく、帝国ホテルの前にさしかかりましたところ、あの聖書を手にして調べつつ山下町の方から歩いておいでになりました狭山様のお姿を拝見しまして、聞きしにまさる、お手廻しの早さに驚きました妾は、自動車の中で気を喪《うしな》ってしまいました。
 妾はそれから約二十分ばかりして眼を開きますと、最寄《もよ》りの丸の内綜合病院に運び込まれて看護婦の手当を受けている事に気付きましたが、その中に汗まみれになって這入って参りました樫尾は、看護婦に用を云い付けて追い出しました隙に、妾の耳に口を寄せてこのような事を囁きました。
「あの聖書が狭山様の手に入ったために何もかもメチャメチャになってしまった。樫尾自身も内地に居られぬようになってしまったが、これはあの聖書を貴女の手から取り返しておかなかった私の失策だから仕方がない。しかし今の間に仲間に命じて逃亡の手当を残らずしておいたから安心なさい」
 と申しましてその計画を申聞かせましたから、今は一刻も猶予ならず、気絶後一時間ばかりして当教会に帰りまして、自動車を止めおいて支度を整えました。
 この自動車に妾が乗っております事は、他人ならば容易に判りますまいと存じますけれども、狭山様に限っては特別のお方と存じましたから、万一の用心に止めておいたのでございます。そうしてこの自動車が数寄屋橋に帰って、又ここまで参る最少の時間を八分間と定め、その僅かな時間を生命と致して逃亡させて頂く考えでございます。
 もはや右に申上げました事実で、妾が忌まわしき夫殺しの罪を犯したお疑いはお晴らし下すった事と存じます。
 申開き致したさの余り、あられもない失礼な事のみ長々と申上げまして、お手間を取らせました事は、何卒、幾重にもお許し下さいませ。
 この上は貴方様の御健康の程、幾久しくお祈り申上げるばかりでございます。かしこ

   午後一時五十二分
   志村のぶ子 拝[#地付き、地より5字アキ]

 読み終ってしまった志免と私は、殆んど同時に時計を出してみた。両方とも二時十六分である。
「あの運転手を逃がすな」
 と二人は矢張り同時に叫んだ。声に応じて三人の刑事は一斉に表に飛び出したが間に合わなかった。
 二人が叫んだその一刹那にスターターを踏んだ三五八八の幌自動車は、忽ち猛然たる音を立てて四谷見附の方向に消え去った。……それとばかりに志免と三人の刑事が、素早く熱海検事の乗って来た箱自動車に飛び込んで追跡したが、あとを見送った私は苦笑しいしい頭を左右に振った。
「駄目駄目。もう少し早く気が付いたら……」
「どうしてあの運転手が怪しい事が、おわかりになりましたか」
 と熱海検事も心持ち微笑を含んで尋ねた。
「初めから怪しい事がわかっていたのです。けれども途中で怪しくなくなったのです。ところが手紙を読んでしまうと同時に、又怪しくなって来たのです」
「……と仰言《おっしゃ》ると……」
 と流石《さすが》の熱海検事も私の言葉に興味を感じたらしく眼を光らした。私はポケットから暗号入りの聖書を引き出して、検事の前に差し出して見
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