考えられる可能性が出来て来る。但し、ボーイに与えた二十円は、余りに多額に過ぎるようであるが、これも想像を逞しくすれば、よく調べずに渡したものとも考えられるであろう。
 しかも……万に一つこのような想像が全部事実として、女が絶対に犯人でないとすれば、彼《か》の紳士は誰が殺したか。誰が珈琲に毒を入れたか。岩形氏が鍵をかけておいた扉《ドア》を誰が開いたか。
 そもそも何の目的で殺したか。
 私は最前ボーイが話した、朝鮮人らしい留学生を疑ってみた。岩形氏が註文した珈琲を、自分のものだと云いがかりを附けながら、その拍子に多分丸薬と思われる毒薬を投込んだものに違いないとは思ったが、そんなものがホテルに来た形跡は少しもないし、所持品も紛失したものがないようだから結局殺した目的はわからない事になる。よしんば、その不明の目的のために岩形氏を殺したとしても、その手がかりになる留学生は、唯、顔に痘痕《あばた》があるというだけで、探し出すにしても雲を掴むような苦心をしなければならぬ。早稲田の帽子を冠っていたと云うけれども、そんな奴の冠る帽子が当《あて》になった例は先《ま》ずない。
 最後に私は最前のボーイの話の中にあった岩形氏の言葉を思い出した。
 ……永遠に酔い、永遠に眠る……。
 ……「自殺」という考えが私の頭の中に閃めいた。けれども自殺とすれば何という奇妙な自殺法であろう。遺書《かきおき》一本残さずに、泥だらけの手で毒薬を注射して、上着と外套を後から着て、横向きに寝て、眼を一ぱいにあけて、開いたままの窓の方を睨んでいる自殺者は、永年変死人を扱い付けている私も、聞いた事すらない。何の必要があって、そんな変梃《へんてこ》な死に方をするのかすら見当の付けようがない。唯《ただ》御苦労と云うより外はないであろう。
 これで他殺の証拠も消え失せるし、自殺と認める理由もなくなった。あとは他殺と自殺の意味を半分|宛《ずつ》含んでいる「過失」という疑問が残る。今まで過失で死んだものを他殺とか、自殺とかいって大騒ぎをした例は珍らしくない。私も二三度迷わされた事があるが、彼《か》の紳士も丁度、自殺と他殺の中間の恰好をしている。
 しかし「過失」とすれば彼《か》の紳士は何か持病があって、その苦痛を免《のが》れるために何かの注射をしていたもので、その分量を誤ったものと見なければならぬが、そんな持病のために一度一度|襯衣《シャツ》を切り破るような、詰まらぬ贅沢をする人間もなかろうし、局部を消毒した脱脂綿も見当らなければ、注射の後で絆創膏《ばんそうこう》を貼った形跡もないのが第一奇怪と云わなければならぬ。反証はこれ一つで沢山だ。
 ところでいよいよ他殺でもなく、自殺でもなく、過失でもない……とすればあとには「病死」と「老衰死」とが残る。しかしこれを問題にするのはあとで読者をあっと云わせる探偵小説か何かの話で、実際にはあり得べき事でない。
 私は落胆《がっかり》してしまった。
 一たい今日の事件は手がかりが早く付き過ぎていて、判断の材料が複雑多岐を極め過ぎている。だからこんなに迷うのだ。……だからどっちにしても女を捕まえさえすれば見当が付く事と思って、彼《か》のカフェーでボーイの話を聞いているうちから、女が犯人でないかも知れないと気付いていたにも拘らず、そのままにして、志免警部の活躍に一任しておいたのであったが……。
 遣《や》り直し……遣り直し……。
 読者は嘸《さぞ》かし自烈《じれっ》たいであろう。私もうんざりしてしまった。しかし一人の絶世の美人が、貞烈無比になるか、極悪無道になるか、絞首台に登るか登らぬかの境目だから、今一度辛棒して考え直さなければならぬ。苟《いやし》くも法律の執行官たるものが、こんな無責任なだらしのない事でどうする……と自分で自分の心を睨み付けながらそろそろと歩度を緩めた。そうして全然別の方向からこの事件を観察すべく、鼻の先の一尺ばかりの空間に、全身の注意力を集中し初めた。
 すべて探偵術のイロハであって、同時にその奥義となっている秘訣は、事件の表面に現われた矛盾を突込んで行く事である。これは強《あなが》ちに探偵術ばかりでなく、凡《すべ》ての研究的発見は皆そうだと云っても差支《さしつかえ》ない位で、高尚なところでは天文学者が遊星の運動の矛盾から割出して新しい遊星を発見し、生物学者が動植物の分布の矛盾から推理して、生物進化の原理を手繰《たぐ》り出すのと一般である。もっと手近い例を取れば、一人の嫌疑者を取調べるにも、
「お前の云うところはここと、ここが矛盾している。これは何故か」
 と突込《つっこ》んで行くと遂には、
「恐れ入りました」
 と服罪するようなもので、理窟は誰でも知っているが実際に扱ってみるとなかなか裏表の使いわけの六ケ敷い、深刻な妙味を持った
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