真理である。
 私はこの場合すぐこの原則を応用した。事件の表面に現われた矛盾の最も甚しいものを、がっしりと頭の中に捕まえた。それは矢張り彼女であった。自称田中春であった。
 この女は一方に質素な藍色の洋服を着て、せっせと働いているように見えながら、一方には派手な扮装《なり》をして、白粉《おしろい》をこてこてと塗って大金を受け取っている。どこに居るかわからぬ子供を思い切ると云うかと思うと、夫婦別れをするらしいのに夫の身の上を心配している。人が吃驚《びっくり》するような美人でありながら、醜い夫に愛着しているのも妙だし、そうかと思うと金を捲き上げているし、正直な風をして聖書をひねくっているかと思うと、その裏面では容易ならぬ曲者《くせもの》の手腕を示している。その癖又、弱々しいところもあるかと思うとしっかりし過ぎているところもあるし、落着いているようにも見えれば慌てているようにも見える。その他何から何まで理窟の揃わない辻褄の合わぬ事ばっかりしているので、その行動の矛盾|撞着《どうちゃく》している有様が、ちょうど岩形氏の死状の矛盾撞着と相対照し合っているかのように見えるところを見ると、その間には何かしら共通の秘密が伏在していはしまいか。その秘密がこの事件の裏面に潜んでいて、二人を自由自在に飜弄《ほんろう》しているために、こんな矛盾を描きあらわす事になったのではないか……待てよ……。
 ここまで考えて来た私は、無意識の裡《うち》にぴったりと立ち止まった。……と同時にポケットの中で最前の聖書をしっかりと握り締めながら、ぼんやりと地面《じびた》を凝視している私自身を発見した。そこいらを見まわすと私はいつの間にか銀座裏を通り抜けて帝国ホテルの前に来ている。
 私はポケットから聖書を引き出して眼鏡をかけた。そうしてすたすたと歩き出しながら聖書を調べ初めた。
 それは日本の聖書出版会社で印刷した最新型で、中を開くと晴れ渡った秋の光りが頁に白く反射した。持主の名前も何も書いてないが、処々に赤い線を引いてあるのは特に感動した文句であろう。ヘリオトロープの香《かおり》は引き切りなしに湧き出して来る。
 私はこの聖書から是非とも何物かを掴まねばならぬという決心で、一層丁寧にくり返して調べ初めた。すると、あんまりその方に気を取られて歩いていたために、日比谷の大通りの出口で、あぶなく向うから来た一台の自動車と衝突するところであったが、自動車の方で急角度に外《そ》れたために無事で済んだ。
「危い」
 と運転手はその時に叫んだが、中に居た女らしい客人も小さな叫び声を揚げた。そうして驚いて振り返った私に向って運転手は、
「馬鹿野郎」
 と罵声を浴びせながら走り去った。
 その運転手の人相は咄嗟《とっさ》の間の事であったし、おまけに荒い縞の鳥打帽を眼深《まぶか》に冠って、近来大流行の黒い口覆《くちおお》いをかけていたから、よくは解らなかったが、カーキー色の運転服を着た、四十恰好の、短気らしい眼を光らした巨漢《おおおとこ》であった。自動車は軍艦色に塗ったパッカードで番号は後で思い出したが、T三五八八であった。
 一寸《ちょっと》した事ではあるが、このはっとした瞬間に私の頭の中はくるりと一廻転した。そうして新しい注意力でもってもう一度聖書を調べ直してみると……。
 ……私は直ぐに気が付いた。聖書の文句に引っぱってある赤線は、只の赤線でない。これは一種の暗号通信のために引いたものである。その証拠には、誰でも感服してべた一面に線を引くにきまっている基督《キリスト》の山上の説教の処には一筋も引いてなく、却ってその他の余り感服出来ない処に引いてあるのが多い。
 私は聖書をそのままポケットに突込んで、電車線路を横切って日比谷公園に這入った。それから人の居ないベンチをぐるぐるまわって探した揚句《あげく》、音楽堂の前に行列している椅子のまん中あたりの一つに引っくり返って、とりあえず聖書の中の赤い筋を施した文字を拾い読み初めた。――
 ――主《しゆ》たる汝《なんぢ》の神《かみ》を試《こゝろ》むべからず。
 ――向《むか》うの岸《きし》に往《ゆ》かんとし給《たま》ひしに、ある学者《がくしや》来《きた》りて云《い》ひけるは師《し》よ。何処《いづこ》へ行《ゆ》き給《たま》ふとも我《わ》れ従《したが》はん。
 ――癩病《らいびやう》を潔《きよ》くし、死《し》したる者《もの》を甦《よみがへ》らせ、鬼《おに》を逐《お》ひ出《だ》す事《こと》をせよ。
 ――罵《のゝし》る者《もの》は殺《ころ》さるべし。
 ――二人《ふたり》の者《もの》他《た》に於《おい》て心《こゝろ》を合《あ》はせ何事《なにごと》にも求《もと》めば天《てん》に在《いま》す我父《わがちゝ》は彼等《かれら》のためにこれを為《な》し給《た
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