顔を見ると、慌てて逃げるように降りて行きました」
「ハハハハ。よかったね。それじゃもう一つ聞くが、昨夜《ゆうべ》の色の黒い紳士が、何か女から貰ったものはないかね。紫色のハンカチの外に……」
「別に気が付きませんでした……あ。そうそう、女が立って行った後に残っていた、小ちゃな白いものをポケットに入れて行きました」
「どれ位の……」
「これ位の……」
 と指でその大きさを示した。それは丁度名刺半分位の大きさであった。
「もう御誂《おあつら》えは……」
「有り難う……ない……」
 と立ち上りながら私は一円紙幣を一枚と五十銭札を一枚ボーイの手に握らした。ボーイは躊躇して手を半分開いたまま私の顔を見上げた。
「……これは……頂き過ぎますが……」
「……いいじゃないか、それ位……」
「だって……だって……」
 とにやにや笑いながらボーイは口籠《くちご》もった。
「……何だ……」
「だって……貴方は狭山さんでしょう。警視庁の……」
「えっ……。知っていたのか」
「……へえ……新聞でよくお顔を……」
「アッハッハッハッ。そうかそうか。それじゃチップが安過ぎる……」
「もう結構です。又どうぞ……」
「アッハッハッハッ。左様《さよう》なら……」
「左様なら……」
 ボーイは逃げるように裏階段を駈け降りて行った。恐ろしく気の利いた奴だ。
 往来に出てから時計を出してみると十一時二十分過ぎである。今まで電話がかからぬところを見ると紅海丸には異状がなかったと見える。機敏な志免警部は最早第二の処置に取りかかっているであろう。
「……二人は夫婦だ。子供の事を口にしていたと云うから……」
 と私は独言《ひとりごと》を云った。そして考えを散らさないように外套の襟を立てて、地面《じびた》を見詰めながら歩き出した。

 私の行くべき道は、ここで明かに二つに岐《わか》れてしまった。実に面目次第もないが事実の前には頭が上がらない。
 ……一つは女を犯人と認めて行く道……。
 ……もう一つは女を犯人と認めないで行く道……。
 女を犯人と認める理由は、最前ホテルで説明した通りである。殊に東洋銀行から大金を引き出しながら落ち着いて出て行ったところ……又紙幣の包みを金と覚《さと》られぬように、若い車夫を雇ったところなぞはなかなか一筋縄で行く女でない。況《いわ》んやステーション・ホテルでボーイに金を呉れて十四号室へ案内をさせてから後《のち》の奇々怪々な行動を見たら、誰でもてっきり犯人と認めるのが当り前で、決して私の逃げ口上でもなければ、負け惜しみでも何でもないという自信を今でも持っているのである。
 ところが私が女を犯人と認めるに至った根本の理由となっている、珈琲の中の毒薬の一件は、今のボーイの話によると全然消滅してしまう事になる。女が珈琲の中に毒薬の入っていることをまるで知らないでいた事は、その動作によって明瞭に察する事が出来るので、男の方が却《かえ》って毒薬と知って引っくり返したものを、わざわざ拭いてやって、恐ろしい証拠物件となるべきハンカチを男に渡してしまった上に、自分の持っていた紫のハンカチまでも与えている。この点から考えると、女を犯人と認める第一の理由は、あとかたもなくなってしまうので、帰するところ、私の推理に根本的な大間違いがあった事になるであろう……否……否……であろうどころではない。その根本的な推理の間違いは今やっと判明《わか》った。
 私は岩形氏を殺そうとしたものと、実際に殺したものとを、最初からたった一人の犯人と思い込んでしまっていたのだ。「魚目」の毒もメチールも、同じ人間が同じ目的で使用したものと信じたためにこんな間違いを犯したので、実は二人の手で別々に使用し得る……従って女は殺人と無関係であり得る……という大切な仮定の下に、もう一度推理をし直してみる必要があったのだ。
 その証拠には第一の仮定がぐら付いて来ると同時に、第二の仮定までもがどん底からぐら付いて来るではないか。すなわちステーション・ホテルで岩形氏を秘密に訪問した女の姿までは、殆んど寸分の狂いもない位的中したようであるが、その女がたしかに男を殺すつもりであったという事実上の証拠と認むべき第一回の珈琲事件の真相がこんな風に正反対に引っくり返って来るとなれば、第二回の注射事件に関する私の論証も、すっかりあやふやになって来る。第二回目にホテルに来て、扉《ドア》の外から様子を窺《うかが》ったのも、たしかに紳士を殺すつもりで来たとは断言出来ない事になる。殊にこの二人は夫婦関係の者で、女は何事かを諫《いさ》めるために、夫に聖書を突付けて泣いたりするような、心掛けのいい女とすれば、二度目にホテルへ来たのも、何かしらそんな目的で、もう一度諫めに来たものか……それとも何かの理由で夫の危急を知って救いに来たものとも
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