った。
しかし、それは大して長い時間ではなかった。やがて感慨深そうに眼を閉じて、何やら二三分間考えていた男は、急に高らかに笑い出しながら眼を開《あ》いて、そこいらを見廻した。
「アハハハハ。馬鹿野郎。何を考えているんだ。考えたって何になるんだ。アハハハハ。おい。ボーイ。酒だ酒だ。ウイスキーでもアブサンでも、ジンでも、キュラソーでも何でも持って来い。みんな飲んでやる。ねえ諸君……」
と叫びながら今度は近い処に固まっていた五六人連れの学生にとろんとした眼を向けた。
「ねえ諸君……諸君は学生だ。前途有望だ。理想境《ユートピア》に向って驀進《ばくしん》するんだ。……吾輩もカフェー・ユートピアに居る。即ち酒だ。酒が即ち吾輩の理想境《ユートピア》なんだ。あとは睡る事。永遠に酔い永遠に眠る。これが吾輩のユートピアだ。アッハッハッハッ。どうだね諸君……」
「賛成ですね」
「うむ。有り難い。それでは諸君一つ吾輩の健康を祝してくれ給え。甚だ失敬だが、この瓶を一本寄贈するから……」
と云ううちに、ボーイが持って来た二三本の酒の中から、シャンパンを一本抜き出して、学生連が取り巻いている机のまん中にどしんと置いた。そうして二十円札を一枚ボーイの銀盆の上に投げ出すと、並んだ料理は見向きもしないで、階段をよろめき降りて行った。
「いま迄にそんな事をした事があるかね……その紳士は……」
と私はすこし真面目になって訊いた。ボーイは何かしらにこにこして、私の顔を見い見い、態度と語調を換えた。
「いいえ。ございません。いつもたった一人でちびりちびりやって、黙って窓の外を見たり、考え込んだり、新聞を読んだり……」
「……一寸待ってくれ……それはどんな新聞かね」
「英語の新聞です。日本のはなかったようです。二三度忘れて行かれましたが……」
「その忘れた新聞が残っていないだろうか」
「なくなっちまいました。料理番《コック》が毎日新聞紙を使いますので……フライパンを拭いたり何かして、あとを焚付《たきつけ》にしてしまいますので……」
「外国で発行したものかどうかお前には解らないだろうなあ」
「わかりません」
「西洋のポンチ絵が載っていやしなかったかい」
「さあ。気が付きませんでした。すぐにくしゃくしゃにして終《しま》いますので……」
「……ふうむ……惜しいな……ところで、その紳士には時々連れでもあったかね」
「いいえ。昨夜《ゆんべ》の女の方が初めてだったと思います」
「昨夜《ゆんべ》その紳士が来た時には、客が少なかったと云ったね」
「申しました」
「幾組位、客があったかね」
「ええと。あの時は隣の室に一組と、こっちの室に一組と……それっきりです」
「合わせて三組だね」
「そうです」
「そのこっちの室に居た客人は学生かね」
「そうです。けれども留学生です」
「……ふうん。留学生。間違いないね」
「間違いこありやせん。早稲田の帽子を冠っておりましたけど、大丈夫日本人じゃありません」
「どこの卓子《テーブル》に居たね」
「あすこです」
とボーイは料理部屋から上って来る裏口の階段を指した。
「何人居たね」
「……えーと。そうです。三人です」
「どんな風体《ふうてい》の奴かね」[#底本では受けのカギカッコの前に句点あり]
「失敬な奴でした。其奴《そいつ》は僕が……私がここのお客様に持って来ようとするウイスキー入りの珈琲《コーヒー》を捕まえて片言で……こっちが先だ。それはこっちへ渡せ……と云うのです。ウイスキー入りの珈琲は一つしきゃ通っていないのに、そんな事を云うんです。けれども僕は我慢して頭を下げながら……へい。只今……と云ってこっちへ持って来ちゃったんです」
「顔は記憶《おぼ》えているかね」
「みんなは知りませんが、そう云った奴の面付《つらつき》だけは記憶《おぼ》えています。色の黒い、痘痕《あばた》のある、瘠《や》せこけた拙《まず》い面でした。朝鮮人かも知れません」
「ほかに特徴はなかったかね」
「さあ。気が付きませんでした。薄汚ない茶色の襟巻をしておりましたが」
「着物は……」
「三人とも長いマントを着ておりましたから解りません」
「下駄を穿《は》いてたかね」
「靴だったようです」
「フーム。元来この店には朝鮮人が来るかね」
「よっぽど金持か何かでないと来ません。留学生はみんな吝《けち》ですから……女が居れば別ですけど……」
「ふふん。その連中の註文は……」
「珈琲だけです。何でも洋装の女より十分間ばかり前に来て、三人でちびちび珈琲を舐《なめ》ていたようです。客が多ければ追い返してやるんでしたけど……それから女が出て行くと直ぐあとから引き上げて行きました。癪に障《さわ》るから後姿を睨み付けてやりましたら、その痘痕面《あばたづら》の奴がひょいと降り口で振り返った拍子に私の
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