所の前から河岸《かし》に出て、弥左衛門町のカフェー・ユートピアの方向へブラリブラリと歩いて行った。その間じゅう私は、今までの出来事をすっかり忘れてしまって、何事も考えず、何事も気を付けないようにした。ただ漫然と空行く雲を仰いだり、橋の欄干を撫でたり、葉が散りかかっている並木の柳を叩いたりして行った。これは私の脳髄休養法で、こんな風に自由自在に、脳髄のスウィッチを切り換えて行ける間は、私の頭が健全無比な証拠だと思っている。
弥左衛門町の横町に這入ると、急に街幅が狭く、日当りが悪くなって、二三日前の雨の名残《なごり》が、まだ処々《ところどころ》ぬかるみになって残っている。殊にカフェー・ユートピアの前は水溜りが多くて、入口に敷き詰められた赤煉瓦の真中の凹んだ処には、どろどろした赤い土が、撒《ま》き水に溶けて溜っている。これは夜になるとこの店の出入が烈しいために、自然と磨《す》り滅《へ》ってこんな事になるので、改良したらよかろうと思うが、嘗《かつ》て一度もこの赤煉瓦が取り除かれたためしがない。そうしてその煉瓦がいよいよ丼《どんぶり》型に磨り滅ってしまうと又、新しい赤煉瓦で埋める。こんなカフェーや洋食店は東京中のどこにもないので、恐らくこのカフェーの主人は、自分の店の繁昌と評判を、この赤煉瓦のお蔭と心得ているのであろう。志免刑事はよくこんな些細な事を記憶している男で、岩形氏の靴に赤い泥が附着《くっつ》いているところを見ると、氏は昨夜《ゆうべ》たしかにこのカフェーに這入ったに相違ないのである。
二階に上って、窓に近い椅子に腰をかけると、まだ誰も来ていない。腕時計を見るともう十時半になっている。今の散歩が約十五分かかった事になる。
室《へや》は繁昌する割に狭くて、たった二室《ふたま》しかない。天井も低くて薄暗い上に昨夜《ゆうべ》のまままだ掃除しないと見えて卓子《テーブル》の覆いも汚れたままである。床の上には果物の皮や、煙草の吸殻なぞが一面に散らばっていて、妙な、饐《す》えたような臭いを室中《へやじゅう》に漂わしている。私が烈しく卓子《テーブル》を叩くと、十六七の生意気らしいのっぺりしたボーイが襯衣《シャツ》一貫のまま裏階段から駈け上って来たが、珈琲を濃くしてと云う註文を聞くと、江戸ッ子らしくつけつけと口を利いた。
「まだお早くて材料が準備してございません。少々手間取りますが……お気の毒さまですが……へい……」
私はこのボーイをちょっと憤《おこ》らしてみたくなった。わざと酔っ払いじみた巻き舌でまくし立ててやった。
「篦棒《べらぼう》めえ。十時半が早けあ六時頃は真夜中だろう。露西亜《ロシア》じゃあるめえし……」
「へえ。申訳ござんせん……つい……」
「つい露西亜の真似をしたっていうのか。そんなら何だって表の戸を明けた」
「へえ。これから気を付けます」
「露西亜になれと云うんじゃねえ。第一お前《めえ》の家《うち》はそんなに夜遅くまで繁昌すんのか」
「へえ。お酒を売りますんでつい……」
「つい営業規則を突破するんだろう。二時か三時頃まで……」
「へへっ。お蔭さまで……へへ……」
「何がお蔭さまだ。俺あ初めてだぞ……」
「恐れ入りやす。毎度ごしいきに……」
「そんなに云うんならごしいきにしてやる。飲みに来てやるぞ。女は居ねえのか」
「はい。私くらいのもので……」
「…ぷっ……馬鹿にするな……全く居ねえのか」
「……お気の毒さまで……」
「……そんなら今日は珈琲だけだ。濃いんだぞ……」
「畏《かし》こまりやした」
と云うなり頭を一つ下げてボーイは飛んで降りたが、間もなく下の方で二三人|哄《どっ》と笑う声がした。
「べらんめえの露助が来やがった」
「時間を間違《まちげ》えやがったな」
「なあに酔っ払ってやがんだ」
「言葉が通じんのか」
「通じ過ぎて困るくれえだ。珈琲だってやがらあ」
「コーヒー事とは夢露《ゆめつゆ》知らずか」
「コニャック持って行きましょか」
とこれは支那人の声らしい。
「おらあ彼奴《あいつ》の名前を知ってる」
と今のボーイの声……。
「ウイスキーってんだろう」
「露探《ろたん》じゃあんめえな」
「なあに。バルチック司令官|寝呆豆腐《ネボケトーフ》とござあい」
「ワッハッハ」
「しっしっ聞えるぞ。ホーラ歩き出した。こっちへ降りて来るんだ」
「……ロシャあよかった」
それっきりしんとしてしまったが、扨《さて》なかなか珈琲を持って来ない。朝っぱらのお客はどこのカフェーでも歓迎されないものである上に、余計な事を云って戯弄《からか》ったものだから、一層|憤《おこ》って手間を喰わしているのであろう。
しかし、これが私の思う壺であった。
私はその間《ま》に椅子から立ち上って、室《へや》の中の白い机掛けを一枚一枚|検《あらた》めて行
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