ったが、ハンカチで拭く程珈琲を引っくり返した痕跡《あと》はどこにも見当らなかった。大方あとで取り換えたものであろう。念のために机掛けをまくって、机の表面まで一々検めて行ったが、これも直ぐに拭いたと見えて何の痕跡《あと》も発見されなかった。あれ程の毒を拭かずにおけば、今朝迄にはワニスが変色するか、剥げるかしていなければならぬ筈である。
私はちょっと失望した。
私はこうして昨夜《ゆうべ》岩形氏と洋装の女が対座していた卓子《テーブル》を見付け出すつもりであった。そうして、ボーイが持って来て岩形氏のすぐ横に置いたに違いないであろうウイスキー入りの珈琲に、洋装の女がどんな機会を狙って、どんな方法で毒薬を入れたか……それを又岩形氏が、どうして感付いて引っくり返したか……という事実がどうかして探り出せはしまいか……それを中心にして二人の態度を細かく探ったら事件の経緯《いきさつ》がもっとハッキリなりはしまいかと期待して来たのであった。
云う迄もなく私は、岩形氏を、尋常一様の富豪とは夢にも思っていなかった。毒と覚《さと》って珈琲を引っくり返したところなぞを見ると案外腕の冴《さ》えた悪党で、この事件の真相というのも実は、稀代の大悪党と大毒婦の腕比べのあらわれかも知れないという疑いを十分に持っていたのであった。……だから……従ってその片対手《かたあいて》の洋装の女が、どの程度の毒婦か。まだほかに余罪があるかないか。どこからどうして毒薬を手に入れたか……というような事実はこの際、焦げ付くほど探っておきたかった。又、そうしておけば、女が捕まった暁に、取調べの方も非常に楽になると思ったからであった。
とはいえ、勿論こんなカフェー見たような処で、そんなところまで探り出すというのは、万一の僥倖《ぎょうこう》以外に、殆んど絶対といってもいい位不可能な事で、如何に自惚《うぬぼ》れの強い私でも、そこまでの自信は持っていないのであった。しかし、女というものは元来非常な強情なもので、自分の手を血だらけにしていてもしらを切り通すのが居る。殊に今度の女は、そんな傾向を多分に持っているらしい事が、あらかた予想されていたので、出来るだけ余計に証拠をあげて捕まったら最後じたばたさせたくない……というのが私の職務的プライドから来た最後の願望なのであった。(……読者はもう気付いておられるであろう。今度の事件の係りになっている熱海という検事は年こそ若いが頭のいい男で、捜索方針については殆んど警察側に任せ切って、ほかの検事みたいに威張ったり、余計な口出しをしたりしない。その代りに拷問というものを本能的に嫌うたちの男で、就任|匆々《そうそう》某署の刑事の不法取調べを告発したという曰《いわ》く付きの男である。しかもこの点では私も同感で、犯人を拷問するのは自分の職務的手腕を侮辱するものであることを万々心得ている。だからこんな風に苦心をする事になるのである。)
ところで、こんな事を考えてそこいらを見まわしているうちに、私は、今朝《けさ》役所を出てからここへ来る間の二三時間というもの、一服も煙草を吸わなかった事を思い出したので、ポケットから敷島《しきしま》を出して口に啣《くわ》えた。すると今度は燐寸《マッチ》のない事に気が付いたので、ボーイを呼ぶ迄もなく、自分で立ち上って室《へや》の中を探しまわったが、灰落しには吸殻が山のように盛り上ったまま、どの机の上にも置いてあるのに、燐寸《マッチ》は生憎《あいにく》一個《ひとつ》もない。大方|昨夜《ゆうべ》の客人が持って行ったものであろう。
私は大きな声を出してボーイを呼んだ。けれども返事すら聞えなかった。この時にやっと珈琲を挽《ひ》き出した電気モーターの音に紛れたのであろう。
煙草を吸う人は皆経験しているであろうがこんな時には燐寸《マッチ》一本のために、大の男が餓鬼道に墜ちるものである。私はもう本職の仕事を忘れてしまった真剣さで、そこいら中をぐるぐる探しまわっていると、ふと隣の室《へや》のマントルピースの上に、小さな黒い箱のようなものが載せてあるのを見付けた。
私は占めたと思った。これこそ燐寸《マッチ》……と思って近付いてみると豈計《あにはか》らんや、それは燐寸《マッチ》ではなくて黒い表紙の付いた小型の聖書であった。……こんな処にこんな物を……と私はその時にちょっと首をひねったが、大方これは客人が落して行ったものであろう……それをボーイが見付け出してマントルピースの上に載せておいたものであろうと思い思い、何の気もなく開いて見ると、それは最新刊の和訳の聖書で、青縁《あおぶち》を取った新しい頁に、顕微鏡式の文字がびっしりと詰まっている。……これは余っ程いい眼を持った人間でなければ読めないな……と感心しながら、なおも先の方の頁をぱらぱらと繰って
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