…それだけ……」
「承知しました」
「では行って来る」
「ちょっと……待って下さい」
今まで黙って聞いていた熱海検事は、出て行こうとする私を遠慮勝ちに呼び止めた。そうして氏一流の謹厳な態度で私の方へ近づいて来た。
「狭山さん。貴方のお考えは実に御尤も至極ですが、それに就《つい》てちょっとお伺いしたい事があります。これはほんの参考のために過ぎないのですが」
丁度|扉《ドア》に手をかけていた私は、そのまま振り返った。こんな温柔《おとな》しい検事が一番苦手だと思いながら……。
「何ですか」
「貴方はどうしてもこの屍体を他殺とお認めになるのですか」
そう云う熱海氏の静かな音調には、ほかの生意気な検事連中にない透徹した真剣さがあった。私は私の自信を根柢から脅かされたような気がして思わず熱海氏の方に向き直った。
「……無論です。犯人が居るから止むを得ません」
「その婦人は果して犯人でしょうか」
「無論です。挙動が証明しております。……のみならず一度閉まっていた扉《ドア》がどうして開いたのでしょう」
「合鍵はこのホテルに別なのがあります」
検事の言葉がだんだん鋭くなって来た。それと反対に私は落ち着いて来た。
「それは支配人が自分で金庫の中に保管しておりますので特別の場合しか出しませぬ」
「……しかし……私が最初にこの室《へや》に這入った時には、絨毯《じゅうたん》の上には紳士の足跡と、ボーイのと、支配人の靴痕しかなかったようですが……支配人もボーイも承認しておりますので、それ以外に靴の痕らしいものはなかったのですが……」
「絨毯の毛は時間が経つと独りでに起き上るものです。ことにあんな風に夜通し窓を明け放ってあります場合には、室《へや》の中の物全部が湿気を帯びる事になるのですから、絨毯の毛は一層早く旧態に返るのです。ですから紳士の足跡は泥で判然《わか》っても、女の足跡は残っていないのが当然なのです。支配人とボーイのは新しいからよくわかったのでしょう。……とにかくこの場は私に委せて頂きたい」
と云い棄て私はホテルを飛び出した。そうしてホテルの前の広場に立って今一度、二階の左から五ツ目の窓を振り返ってみると、そこには熱海検事の顔が出ていて、気遣わしそうに私を見送っていた。
これから先、私がどんな風に活躍したかという事実は、正直のところを云うと私としてはあんまり公表したくない話である。既に今まで述べて来た話の中でも、私は取り返しの付かない大きな見落しをやっているので、冷静な頭で読まれた諸君は最早《もはや》、とっくと気が付いておられる事と思う。そうしてこの狭山という男は、課長とか何とか偉そうな肩書を振りまわしているが、案外だらしのないそそっかし屋だ。おまけに下らないところで威張ったり、名探偵を気取ったりして、恐ろしく気障《きざ》な奴だ……とか何とか腹を立てておられる人が在るに違いないと思う。
しかしこれは誤解しないようにして頂きたい。
私は正真正銘のところ、私の名探偵振りを諸君に見せびらかすつもりでもなければ、自慢話を御披露したがっているのでもないのである。この記録の冒頭にもちょっとお断りしておいた通りの意味で、私の世にも馬鹿げた失敗談を公表しているに過ぎないのだ。世間から名探偵とか、鬼課長とか持ち上げられるのを真《ま》に受けて自分が豪《えら》いのだと確信していた私……いい気になって日本の探偵界を攪乱していたつもりの私が、どんな手順に引きずられて、知らず識《し》らずの中に、世にも恐ろしい秘密結社、J・I・Cの底知れぬ秘密の方へ惹き付けられて行ったか。そうして私の天狗の鼻が、如何に超自然な物凄い手で、鮮かに※[#「※」は「てへん+宛」、第3水準1−84−80、94−1]《も》ぎ取られて行ったか……というその時その時の気持ちを正直に告白しているつもりなので、もう一つ露骨に云うと、私のようなものをおだて上げて、こんな酷《ひど》い眼に会わしたその当時の日本の探偵界の悲哀を、今日現在の日本の名探偵諸君に首肯して頂きたいばっかりにこの筆を執《と》っている者である。
だから、これから先に記述する事実は、いよいよ得意になった私が、いよいよ失敗の深みに陥って行くところ……否……いよいよ失敗の深みに落ち込んで行きながら、いよいよ得意になって行くところ……いや……どっちにしても結局同じ事だが……そんな事ばかり書いて行かなければならぬので、読む方は面白いかも知れないが、書いて行く身になると実に辛い。書かない前から冷汗がポタポタと腋《わき》の下に滴《したた》る位である。
しかしその時の私は頗《すこぶ》る真剣であった。後になってこんな冷汗を掻くだろう……なぞとは夢にも考えない、探偵の神様気取りの私であった。
私はステーションホテルを出ると、たった一人で市役
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