家《うち》の近所か、又は勤め先の会社か何かに近い、きまり切った店でリボンを買うものだからそのつもりで……。それから借着屋を当らせること……。着物の種類はわかっているだろう……女がヘリオトロープの香水を使っている事を忘れないように……それからもう一つ新橋二五〇九という俥屋《くるまや》を探してもらいたい……こっちが先かも知れないがその辺は志免君の考えに任せる。相当|手剛《てごわ》い女と思った方が間違いないだろう。……それから二種類の毒薬の分析は無論のこと、屍体解剖の序《ついで》に左腕の刺青《いれずみ》の痕を切り抜いてもらって、残っている墨の輪廓を出来るだけ細かに取っておくように……それだけ……」
命令を終ると皆、眩《まぶ》しそうに私の顔を仰いだ。私の下した判断と処置が、あんまり迅速であったからであろう。皆互に顔を見合わせて突立った切りであった。
やがて志免警部の顔に感動の色が動いた。飯村部長の顔にも動いた。二人とも懐中時計を出して、十時十五分を示している私のと合わせてから、熱海検事と私に一礼すると、日比谷署の連中や、直接の部下と一緒に活動の手分けをすべく、隣りの居室《いま》の方へ退いた。二人の眼には確信の輝きがあった。私の命令の意味を十分に呑み込んで、遠からず女を逮捕して見せるという私の自信を、そっくりそのままに自信しているものと見えた。
けれども私は、居室《いま》に退いた連中が、まだ相談を初めないうちに、突然、眼を閉じて頭を強く振った。
「……オイ……いけない……ちょっと待った……」
「……………」
腰をかけていた連中は皆立ち上った。屍体の足の処を行きつ戻りつして考え初めていた熱海検事も、その位置に停止した。窓の前で何やら話し初めていた杉川警察医と古木書記の二人も皆、面喰った顔を揃えて私の方に向けた。
私は右手でぴったりと額を押えながら杉川警察医をかえり見た。
「杉川君……」
「ハイ」
「先刻《さっき》ボーイの山本が意識を回復した時に……モウ正午《ひる》過ぎですか……とボーイ頭の折井に訊ねたのは、単に寝ぼけて云ったのでしょうか……それとも何か理由があって訊いたのでしょうか」
杉川医師もちょっと横額《よこひたい》を押えた。
「サア。その辺はどうも……」
「私が行って訊いてみましょうか」
と轟刑事が進み出た。
「ああ。そうしてくれ給え。今日の正午《ひる》まで妾《わたし》が来た事を黙っていてくれるように……と云って、女から頼まれたんじゃないかと云って、うんと威《おど》かしていい……心臓痲痺を起さない程度に……ハハ……」
私の言葉が終らないうちに轟刑事は、うなずきながら室《へや》の外へ辷り出た。その小走りの跫音《あしおと》が聞えなくなると室《へや》の中が急に森閑となった。窓の外をはるかに横切る電車の音ばかりが急に際立って近付いて来た。
厳粛な二三分が、室《へや》の中を流れて行った。
そのうちに階段を駈け上る跫音が聞えたと思う間もなく轟刑事が息を切らして這入って来た。
「お察しの通りです。午砲《ドン》が聞えたら警察に自首して出ろ。その通りにしなければお前は生命《いのち》が危い。そうしてもしその通りにしたならば妾《わたし》がどこからか千円のお金を送ってやると云ってボーイの母親の所番地を聞いて行ったそうです」
「そうして又、気絶したかね」
「助けて下さいと云ってワイワイ泣き出しました」
「ハハハハハ。正直な奴だ。それじゃ今の命令は全部取消しだ」
「エッ」
と皆は又も電気に打たれたように固くなった。その驚きと疑問に充《み》ち満ちた顔を見廻しながら私は冷やかに笑った。
「うっかりしていた。もう少しで犯人を取逃がすところだった……」
「……………」
「誰か最近の新聞で、横浜と、神戸と……いやいや東京ので沢山……今日の新聞を持っていませんか」
古木書記は弾《はじ》かれたように両手をポケットに突込んで、今朝の東都日報を私の前に差出した。私はそれを手早く拡げて、広告欄の下の方を見廻した。
「よろしい。今日横浜から出る船は桑港《シスコ》行きで午前十一時の紅海丸しかない。神戸行きの方はリオン丸と筑前が欧洲航路だが、これは長崎に寄るのだから、まだ大分時間がある。下関なし。敦賀なし。函館もなしと。よしよし。志免君は、すぐに横浜へ電話をかけて、紅海丸の乗客を出帆間際まで調査するように頼んでくれ給え。念のために電報を打っといた方がいいだろう。変装しているかも知れぬと注意しておき給え。十一時過ぎて何の返事もなかったら、神戸と下関と長崎と函館へ手を廻してくれ給え。それから先の方針は前の命令の復活だ。……僕はこれから弥左衛門町のカフェー・ユートピアへ行く。すこし疑問の点があるから……当りが付いたら電話をかけ給え。あとはこっちから役所へ電話をかける…
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