後へ退《ひ》く事は、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、否《いや》でも応《おう》でも、この事件の真犯人を有耶無耶《うやむや》に葬り去る事が、どうしても出来ない立場におるのだ。……然《しか》るにだ。……一方に吾輩の立場はどうかというと、必ずしもそうでない。そうした若林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。……いいかい……それよりも吾輩の専門上、当然の責任として、全力を挙げて来たのは君自身、もしくは呉一郎の『頭の回復』であったんだが、併しそれにしてもその犯人の名前とか、顔とかを是非とも思い出させなければならぬ責任とか、必要とかいうものは全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何等の差支《さしつか》えがないのだからね。……呉一郎の発病の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場から立派に説明が付く事だし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっている訳
前へ 次へ
全939ページ中783ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング