め/\喜ばしき御沙汰には候はず、妾の夫にて御屋敷奉公致せる者より卒度《そと》洩《も》らし参りしやうには、彼《か》の喜三郎と云へる御仁は、雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時より御行跡穏やかならず、長崎|御番《ごばん》の御伴《おとも》して彼《か》の地に行かれしより丸山の遊び女《め》に浮かれ、遂《つい》にはよからぬ輩《ともがら》と交《まじわ》りを結びて彼処此処《かしこここ》の道場を破りまはり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、狼籍《ろうぜき》の限りを尽して身の置き処無きまゝに、此程|窃《ひそ》かに御帰国ありし趣に候。さりながら御家中の誰あつて、嫁婿の御望みを承るものなきのみならず、蛇、毛虫の如く忌《い》み恐れ居り候ひし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものに侍り。のみならず、其のまことの下心は、御事済《おんことず》みの後《のち》、御家老の御威光をもちて、呉家の物なりを家倉《いえくら》ともに押領せられむ結構とこそ承り候へ。御運とは申せ、力無き事とは申せ、御行末《おんゆくすえ》の痛はしさを思へば、眼も眩《く》れ、心も消えなむ計《ばか》りと、涙を流して申し候。
前へ 次へ
全939ページ中577ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング