出で法体《ほったい》となりて一笠一杖《いちりゅういちじょう》に身を托し、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に近く、長崎路より肥前|唐津《からつ》に入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、空坪年二十六歳なり。
 空坪此地の景勝を巡りて賞翫する事一方ならず。虹の松原に因《ちな》んで名を虹汀《こうてい》と改め、八景を選んで筆紙を展《の》べ、自ら版に起して洽《あま》ねく江湖《こうこ》に頒《わか》たん事を念《おも》へり。かくて滞留すること半載《はんさい》あまり、折ふし晩秋の月|円《まど》かなるに誘はれて旅宿を出で、虹の松原に上る。銀波、銀砂に列《つら》なる千古の名松は、清光の裡《うち》に風姿を悉《つ》くして、宛然《えんぜん》、名工の墨技《ぼくぎ》の天籟《てんらい》を帯びたるが如し。行く事一里、漁村|浜崎《はまさき》を過ぎて興|尚《なお》尽きず。更に流霜《りゅうそう》を逐《お》ふ事半里にして夷《えびす》の岬《はな》に到り、巌角に倚《よ》つて遥かに湾内の風光を望み、雁影を数へつゝ半宵《はんしょう》に到りぬ。
 折しもあれ一人の女性《にょしょう》あり。年の頃二八には過ぎじと思はるゝが、華やかなる袖を飜《
前へ 次へ
全939ページ中571ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング