石狩川の方向で、二三発の銃声が聞えて以来、パッタリと影を消してしまった自分の夫を、監獄からの追跡者に殺されたものとばかり思い込んでいた妻の久美子が、カーキ色の登山服に、ライフルを担《かつ》いだAの姿をチラリと見るや否や、おなじ監獄からの追跡者と早合点したのは無理もない話でしょう。……何の気もなく五連発の旋条銃《ライフル》を担いで、フキやイタドリの深草を潜りながら、一軒屋に近付いて行ったAは、背後から不意打に、猛獣みたような者に飛び付かれたので、アット思う間もなく飛び退《の》いてみると、そこにはタッタ今奪い取ったばかりの旋条銃《ライフル》を構えた、全裸体《まるはだか》の女が、物凄い見幕で立ちはだかっている。幸いにして引金の転把《テンパ》が上がっていなかったので、ダムダム弾の連発を喰らわされる事だけは助かった訳ですが、それにしても女の見幕の恐ろしさには、流石《さすが》のAも震え上ったのでしょう。女が転把《テンパ》の上げ方を知らないで、間誤間誤《まごまご》している隙《すき》を狙って、一足飛びに逃げのくと、あとから銃身を逆手に振上げた女が、阿修羅のように髪を逆立《さかだ》てて逐蒐《おいか》けて来る。その恐ろしさ……道もわからない藪畳《やぶだたみ》や、高草の中を生命《いのち》限りの思いで逃げ出して行っても、相手はソンナ処に慣れ切っている半野生化した女ですから、それこそ飛ぶような早さです。おまけにドウしてもAをタタキ倒して、息の根を止めなければならぬ。……子供の安全を計らなければならぬと思い詰めた、母性愛の半狂乱で飛びかかって来るのですからたまりません。
 息も絶え絶えのまま野を渡り山を越えて、方角も何も判然《わか》らなくなってしまっても、まだザワザワと追いかけて来る音がする……と思ううちに思いもかけぬ横あいから、銃身を振り翳《かざ》した裸体《はだか》女が、ハヤテのように飛び出して来る。驚いて崖から転がり落ちると、女も続いてムササビのように飛び降りる。小川を躍り越せば女も飛び越す。それが男よりもズット敏捷《びんしょう》で、向不見《むこうみず》と来ているのですから、Aはイヨイヨ仰天《ぎょうてん》して、悲鳴を揚げながら逃げ迷う。その中《うち》に日暮れ方になると、女はヤット転把《テンパ》の上げ方を会得したらしく、数十間うしろから立て続けに二三発撃ち出しましたが、その最後の一発が思いがけなく、Aの帽子を弾《は》ね飛ばしたのでイヨイヨ肝魂《きもたましい》も身に添わなくなったAは、それこそ死に物狂いの無我夢中になって、夜となく昼となく裸体女の幻影に脅やかされながら、人跡未踏の高原地をさまよい初めました。
 日が暮れて、夜が明けても、まだ女が追掛けて来るらしい風の音が、四方八方に聞こえる。息も絶々《たえだえ》に疲れて打ち倒れても、睡るとすぐにライフルの音が聞えたり、女の乱髪が顔を撫でたりする。そこで又も、夢うつつのまま起き上って、青天井や星空の下をよろめきまわるという、世にも哀れな状態になってしまいました。そうしてどこを、ドウ抜けて来たものか野垂死《のたれじに》もせずに、生きた木乃伊《ミイラ》と同様の浅ましい姿で、旭川の町にさまよい出ると、裸体女が眼に付くたんびに飛び上って悲鳴をあげる。そうかと思うとどこへでも駈け込んで、
「……タ……大変だ……谷山家の重大秘密だ……二重結婚だ……脱獄囚の妻だ……天女の姿をした猛獣だ……」
 なぞとアラレもない事を口走るようになった……というのがAの発狂の真相だったのです。
 ……ところでこの真相を聞き出した今の精神病院の副院長は、最初のうち半信半疑だったと申しますが、それは当然の事だったでしょう。初めから終《しま》いまで非常識を通り越した事実ばかりですからね。……しかも念のために病院に保管して在ったAのボロボロの登山服を調べてみると……ドウでしょう。Aの言葉が一言一句、真実に相違ない事を証明するに十分な、畑中昌夫と谷山秀麿の戸籍謄本や、新聞紙面の複写フィルムを、内ポケットから探し出したばかりでなく、メチャメチャに壊れたAのカメラの中に、タッタ一枚無事に残っていた、私の妻子のグロ写真を現像する事にまで成功したではありませんか。
 副院長はそこで初めて、Aの精神異常の回復が、谷山家の重大問題となるであろう事実に気が付いたものでした。そこで早速、私に宛てた至急親展で、事のアラマシを通知して、事実かどうかを問い合わせて来た訳ですが、その手紙を受取った時には私も、思わずシインとなりましたよ。
 むろんその手紙には、学術研究のために問合せるのだから、仮令《たとえ》事実であっても絶対秘密にする……云々という追而書《おってがき》が添えてありましたし、問題の龍代も、最早トックにお位牌になっていた時分のことですから、私の心配も半分以下で済んだようなものでしたが、しかし、それにしても重大問題には相違無いので、取るものも取りあえず上京して目黒の精神病院を訪問してみますと……又もシインとするほど脅《おびや》かされたのでした。頑丈な鉄の檻の中に坐り込んでいた、患者姿のAは、とりあえず見舞いに来た私の顔を、ハッキリと記憶していたばかりでなく、何やら訳のわからない紙片《かみきれ》を鉄棒の間から突出しながら、辻褄《つじつま》の合わない脅迫めいた文句を、私に向って浴びせかけるではありませんか。むろんその紙片《かみきれ》は、私の事を書いた新聞の複写か何かと思い込んでいたものに違い無いのですが……。
 私はその複写拡大紙面の実物と、ブロマイドに焼付けられた妻子のグロ写真とを並べて、副院長の自室で見せてもらいましたが、それを見ているうちに初めて、自分の過去の記憶を電光のように呼び起す事が出来ました私は、あんまり烈しいショックを受けましたために、一時失神状態に陥ってしまったものです。
 しかし間もなく、副院長の介抱によって正気に帰りますと、私は、すぐに非常な勇気を奮い起しまして、Aが自白した一切の事実を確認しました上に、尚《なお》足りないところを詳細に、副院長の前で補足してしまいました。そうしてAの一身に関する相当の保護を依頼すると同時に、私の前身を公表するかしないかという重大な判断はタッタ一つ……副院長の自由意志に一任しまして、その旨を半狂人《はんきちがい》のAに詳しく云い聞かせますと、そのまま北海道に引上げてしまいました。これは申すまでもなく、万一、私の前身が公表されました場合、落付いて刑に就くべく心用意をしておくためでした。……いくら他人の秘密を預るのが商売の精神病医でも、これ程の秘密を握《にぎ》り潰《つぶ》すのは、容易な事であるまいと思いましたからね。

 ……エッ……何ですって……。
 私の話がトンチンカンですって……。
 これは怪《け》しからん。どこがトンチンカンですか。私は立派に順序を立ててお話ししているつもりですが……。
 何ですか……その新聞記者のAという男の本名は、まだ思い出さないかって仰有《おっしゃ》るのですか……サア。それがまだ思い出せないのですが……モウジキに思い出すだろうと思っているんですが……。
 ……オヤ……何故お笑いになるのですか。
 ヘエ。ここがその目黒の病院なんですか。ヘエッ。それじゃA君もここに居る訳ですね。ヘエ――ッ。ほんとうに居るのですか。……ちっとも知らなかった。イッタイどこに……。
 エッ。……ここに居る……。
 ……ナ……何ですか……私がその新聞記者のAだと仰有るのですか。御冗談ばかり……私は只今も申しました通り、谷山家の養嗣子秀麿ですが。その久美子という、猛獣天女の亭主に相違ないのですが……龍代と二重結婚をしたアノ白痴同様の……。
 エッ。その秀麿……谷山家の養子になった私が、ここに入院した原因をお尋ねになるのですか。そ……それはその……その発狂当時の事ですからチョット思い出しかねるのですが……。
 ……お笑いになっちゃ困ります。鏡なんか見なくたっていいです。自分の顔は自分でちゃんと知っております。
 ……ナ……ナ……何と仰有るのですか。その谷山秀麿は、今でもやはり谷山家の養子になって、盛んに事業界に活躍している。後妻には山の中から久美子を迎え出して、谷山夫人を名乗らしている……そ……それあ怪《け》しからんじゃないですか……二人は今後、絶対に人間世界に帰らないと云って、あれ程固く約束していたのに……イヤイヤ。私の想像なんかじゃないのです。事実に相違ないのです。実に……ジツに怪しからんですなあ……。
 ヘエ。何ですって……ここの副院長から与えられた暗示で、美事に過去の記憶を回復した谷山秀麿は、北海道に引返してから間もなく、副院長の誠意を籠《こ》めた手紙を受取ったので、ホット一息安心することが出来た。そうしてAの一生涯を、病院で飼殺しにしてもらうように、折返して返事を出すと、すぐにタッタ一人で極秘密の裡《うち》に、旭岳の麓へ久美子を迎えに行ったのですか。ヘエ……そこで流石《さすが》の猛獣天女だった久美子も、なつかしい昌夫の泪《なみだ》ながらの告白に負けてしまった。ハハア……作り飾りの無い、昌夫の純情に動かされた結果、龍代の身代りになって、谷山家の一粒種……龍太郎を育て上げるべく、涙ぐましい決心をした。成る程……そこで四人の子供を左右に引連れた猛獣天女が、はるばると人間世界に天降《あまくだ》る事になったが、それに就ては昌夫の秀麿が、思い出深い石狩川の上流から、エサウシ山下の別荘まで、人に知れないように連れ込むべく、アラユル苦心を払ったものである。いかにもねえ……それから久美子の戸籍面の届出や、子供の行儀作法のテストに至るまで、又もや惨憺《さんたん》たる苦心研究を積ませられたものであるが、さてそのあげく、イヨイヨ一行を谷山家に乗込ませて見ると、案ずるよりも生むが易いで、久美子の奥様振りが頗《すこぶ》る板に付いたアザヤカナものだったので、龍代の再来という評判が立って、一躍、界隈の社交界をリードするようになった。同時に家庭も極めて円満で、五人の子供達にミジンの分け隔ても見せないから、将来、谷山家の秘密に気付くものは絶対に出ない見込である……だからその事に就ては、絶対に心配しなくともいいと仰有る……ナア――ンダイ。馬鹿にしやがらア……。
 イヤ……アハハハハ……これあ失敗《しくじ》った。うっかりネタを曝《ば》らしちゃった。
 アハハハ。実はね。先生をドウかして一パイ引っかけて、マンマと首尾よく退院してくれようと思いましてね。この間から寝ないで話の筋を考えていたんです。そうしたらツイ今サッキ尻餅《しりもち》を突いた拍子に、自分の経歴を思い出したような気がしたもんですからね。こいつあ占《し》めたと思って、すぐに先生の処へ来たんですが……ハアテネ……。
 俺は一体、誰の経歴を思い出したんだろう……自分で調べた他人の経歴を思い出したんじゃないか……ハテ…いけねえいけねえ。モットよく考えて来れあよかった。どこかに辻褄の合わない処があったんだ……。ヨオシ……今度こそは……。
 エッ。昨日《きのう》も僕が同じ話をしに来たんですって……一昨日《おととい》も……ズット前から何度も何度も……アノ僕が……ヘエ……。だから先生の方でも、谷山さんに頼まれた通りに、繰り返し繰り返し詳《くわ》しい事情を説明して、ヤキモキしないように云って聞かせているが、ドウしてもわからない……僕がですか……ヘエ。おまけに自分の事と、他人の事とをチャンポンにして考えたりするので、話がだんだんトンチンカンになって来る。だから君のアタマはタシカでない。谷山家の事なんか忘れてしまって、モット気楽に養生しなければ、いつ退院出来るかわからない……ヘエ――……。それあ誰のことですか……エッ……僕のこと……ヘエ。そうして貴方は……。失礼ですが、どなたですか。
 エッ。副院長の助手さん……一緒に僕の心理状態を研究している……。
 ……ウワア……しくじったア。それじゃ何でも知っている筈だ。僕は又院長さんかと思った。院長さんなら、まだ一度も僕に会ったことがないから、もしか
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