アハハ。いよいよオンチだなあ。だからこうして事務室の方へまわっているんじゃねえか」
「俺あ徹夜が一番、苦手じゃ。睡うて腹が減って叶《かな》わん。頭がボーとなって来る」
 又野が毛ムクジャラの手の甲で顔をゴシゴシとこすった。ほかの二人も立止まった。
「ハハハ。俸給を忘れる奴があるかえ」と、笑いながら三好がポケットからバットの箱を出した。
「俸給は十時から渡すんだっけな」と戸塚もカメリヤの袋を出しかけた。
「……オイ……あれを見い……」
 と又野が突然に背後《うしろ》を指《ゆびさ》した。
 鉄屑の堆積越しにコスモスのチラチラ光るテニス・コートの向うから、事務員風の男が来かかっている。霜降《しもふり》背広に、カラの高い無帽の男で顔はよくわからないが、黒い鞄《かばん》を両手で抱え込んで、何か考え考え俯向《うつむ》き勝ちの小急ぎに、仄白いサーブ・ラインを横切って来る。
 その背後《うしろ》から今一人、鳥打帽を目深《まぶか》く冠って、黒い布片《きれ》で覆面をした菜葉服の男が、新しい地下足袋を踏み締め踏み締め、殺気立った足取で跟《つ》いて来る。軍手を穿めた手にステッキ位の黒い棒をシッカリと構えている
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