剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。
「動《いご》いちゃイカンイカン。中野さん。助けます助けます……動《いご》いちゃ……イカン……」
 又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。
「オーイ。誰か来いッ。誰かア……誰か来てくれエエーイッ。オオ――オオ――イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない……」
「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。
 しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を保《も》った空気に迫られて動くまいとしても動かずにいられなかったのであろう。死物狂いに手足を振り動かして火の海に背中を向けようとした。
「ギャアギャアギャア……ギャギャギャギャッ……」
 と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。
「ハッハッハッハッ……あばれちゃ……いかん……ハッハッハッハッ……動《いご》いちゃ……」
 折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。
 
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