ら拳固を振上げた。三好が一間ばかり横に飛び退《の》いた。
「アハハハ。その代り起業祭の角力《すもう》の懸賞はオンチのものだろう」と戸塚がオダテるように又野を見上げた。又野が苦い顔をして笑った。
「インニャ。俺あ今年や角力取らん」
「エッ」二人とも驚いたらしく又野の顔を左右から見上げた。又野は真剣な――しかし淋しそうな顔をしていた。
「馬鹿な……オンチだなあ……みんな期待しているんじゃねえか。鼻の先に水引《みずひき》がブラ下がっているんじゃねえか。今年の起業祭には会社が五千円ぐらいハズムってんだから懸賞の金だって大きいにきまっているんだぜ。何故、取らねえんだ……オンチ……」
「ウウン。それじゃけに俺あ取らん。キット取れるものをば毎年、取りに出るチウ事は、何ぼオンチでも面火《つらび》が燃えるてや……のう……」
 といううちに又野はモウ赤面しながら苦笑した。正直一徹な性格が、その苦笑の中《うち》に溢れ出ていた。
「惜しいなあ。みんな君の力を見たがっているんだになあ」
 と三好が諛《へつら》うように又野を見上げた。その時に又野がパッタリと立止まった。
「アッ。きょうは十日……俸給日じゃろ」
「アハハ。いよいよオンチだなあ。だからこうして事務室の方へまわっているんじゃねえか」
「俺あ徹夜が一番、苦手じゃ。睡うて腹が減って叶《かな》わん。頭がボーとなって来る」
 又野が毛ムクジャラの手の甲で顔をゴシゴシとこすった。ほかの二人も立止まった。
「ハハハ。俸給を忘れる奴があるかえ」と、笑いながら三好がポケットからバットの箱を出した。
「俸給は十時から渡すんだっけな」と戸塚もカメリヤの袋を出しかけた。
「……オイ……あれを見い……」
 と又野が突然に背後《うしろ》を指《ゆびさ》した。
 鉄屑の堆積越しにコスモスのチラチラ光るテニス・コートの向うから、事務員風の男が来かかっている。霜降《しもふり》背広に、カラの高い無帽の男で顔はよくわからないが、黒い鞄《かばん》を両手で抱え込んで、何か考え考え俯向《うつむ》き勝ちの小急ぎに、仄白いサーブ・ラインを横切って来る。
 その背後《うしろ》から今一人、鳥打帽を目深《まぶか》く冠って、黒い布片《きれ》で覆面をした菜葉服の男が、新しい地下足袋を踏み締め踏み締め、殺気立った足取で跟《つ》いて来る。軍手を穿めた手にステッキ位の黒い棒をシッカリと構えている
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