オンチ
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒烟《くろけむり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蒸気|管《パイプ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+皮」、第3水準1−93−7]《かわ》
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       一

 大戦後の好景気に煽られた星浦製鉄所は、昼夜兼行の黒烟《くろけむり》を揚げていた。毎日の死傷者数名という景気で、数千人を収容する工場の到る処に、殺人的な轟音《ごうおん》と静寂とがモノスゴく交錯していた。
 汽鑵場の裏手に在る庭球場は、直ぐ横の赤煉瓦壁に静脈管のように匐《は》い付いている蒸気|管《パイプ》のシイシイ、スウスウ、プウプウいう音で、平生でも審判の宣告や、選手の怒号が殆んど聞こえなかった。テニスの連中はだから皆ツンボ・コートと呼んでいたが、それがこの頃では一層甚しくなって来たために不愉快なのであろう。滅多にテニスをしに来る者が無くなった。
 しかしその淋しい審判席の近くに、誰が蒔いたかわからないコスモスの花が咲乱れる頃になると、十月十七日の起業祭が近付いて来るので、正午《ひる》休みの時間に、時々職工達が芝居の稽古に来る事があった。
 秋日のカンカン照っているテニス・コートの上で、菜葉《なっぱ》服の職工連が、コスモスの花を背景にして、向い合ったり、組み合ったりして色々なシグサを遣《や》るのはナカナカの奇観であった。近まわりの工場の連中がワイワイ取巻いて見ているうちに、お釜帽《かまぼう》を冠った機械油だらけの職工が、板片《いたきれ》の上に小石を二つ三つ並べて、腰元らしく尻を振り振り登場すると皆、一時にドッと笑い出したりした。勿論セリフは全くわからないし、身形《みなり》も作らない作業姿なので、最初は何が何だかサッパリわからなかったが、だんだんと場面が進行するにつれて外題《げだい》がわかって来た。二人きりで相手を蹴倒おすのは「熱海《あたみの》海岸」。鉄砲を撃つのは「山崎街道」。大勢で棒を担いで並ぶのは「稲瀬《いなせ》川勢揃い」。中には何が何やらわからない新劇もあるが、そんなものでも誰云うとなく「嬰児殺し」だの「夜の宿」だのとわかって来るようになったので、しまいには一組も稽古に来な
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