を上げたと思うと中野学士は、背中と尻のふくらみを又野の両手に掴まれたまま、軽々と差上げられていた。
 又野は怒りの余り、中野学士を火の海へ投込むつもりらしかったが……トタンに、それと察した中野学士が無言のままメチャクチャに手足を振まわし初めたので、又野は思わずヨロヨロとなってデッキの端に立止まった。
 その時に誰かわからない真黒い影が、突然に平炉の蔭から飛出して来た。又野の腰を力一パイ突飛ばすとそのまま、後も見ずに逃げて行った。
「アッ……」
 と又野は前へのめったが、振返る間もなく中野学士を掴んだままギリギリと一廻転して、真逆様《まっさかさま》に落ちて行った。
 しかし又野は下まで落ちて行かなかった。
 ちょうど又野の両足の間に、鉄板の腐蝕した馬蹄型の穴が在った。そこに又野の左足の踵《かかと》が引っかかったために、片足で逆釣りに釣られたまま中野学士の背中と尻をシッカリと掴んでいた。同時に中野学士の顔は、四尺ばかりを隔てた真上から火の海に直面してしまったので、その恐ろしい火熱に焙《あぶ》られた中野学士は地獄のような悲鳴をあげた。
「……ガガアーッガガアーッ……助けて助けてッ……」
 金剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。
「動《いご》いちゃイカンイカン。中野さん。助けます助けます……動《いご》いちゃ……イカン……」
 又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。
「オーイ。誰か来いッ。誰かア……誰か来てくれエエーイッ。オオ――オオ――イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない……」
「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。
 しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を保《も》った空気に迫られて動くまいとしても動かずにいられなかったのであろう。死物狂いに手足を振り動かして火の海に背中を向けようとした。
「ギャアギャアギャア……ギャギャギャギャッ……」
 と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。
「ハッハッハッハッ……あばれちゃ……いかん……ハッハッハッハッ……動《いご》いちゃ……」
 折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。
 
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