「ボオオ――ンンン……」
それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った仄黄色《ほのきいろ》い水蒸気と、煙と、焔の一団が、渦巻き合いながら中空の暗《やみ》へ消え入ると、あとに等身大の大の字|形《なり》の黒い斑点が残っていたが、それとてもやがて又、何の痕跡も留めない赤い火の海平面に復帰して行った。
ただ、それだけであった。
六
中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも噎《む》せるような焼死体の異臭に鼻を撲《う》たれてペッペッと唾液を吐いた。
その序《ついで》にニッコリと笑って平炉の広い板張のデッキへ帰りかけたが、そのニコニコ笑《わらい》が突然に、金縁眼鏡の下で氷り付いてしまった。
板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。
中野学士は思わず半歩ほど後へ退《さが》った。キッと身構えをしてその男を白眼《にら》んだ。折柄、遥か向うで開いた汽鑵場のボイラーの焚口が、向い合った二人の姿を切抜いたように照し出した。
中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の拳《こぶし》を握り締めた。「何だ君は……」
相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という釜焚《かまた》きだ」
「知っている。……職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」
中野学士の語尾が少し甲走《かんばし》った。又野の瞳がキラキラと光った。
「知っとる……貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」
「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」
「……嘘|吐《こ》け……」
「退《ど》けと云うたら退《ど》け……」
中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き退《の》けてデッキの平面に立つと、間髪を容れず、立直って来る又野の足を目がけて、猛烈な足払いをかけた……が……ビクともしない……と思った瞬間に又野の巨大《おおき》な両手が、中野学士の襟首にかかって、ギューギューと絞付けて来た。
「エベエベエベエベエベエベ……」
という奇妙な声
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