のは、タヨリにして御座った奥さんがなくなられたのを心から力落しなすったせいだろうと思いますが、飛んだ事になりまして……何もかも私がウッカリ致しておりましたために、取返しの附かぬ事になってしまいまして、先代のロスコー様に合わせる顔も御座いません。
 ただ一つ不思議なのはあの晩が月夜だった事で御座います。あの時には旦那方から『月が出ている筈はない』とヒドクお叱りを受けましたが、それから後、この留置所へブチ込まれまして、窓の眼隠し越しの三日月様を見て、指を折ってみますと、たしかにあの晩は闇夜だった筈なんで……ところが又、あの晩に私があの松原の中で、松の葉越しにマン円《まる》いギラギラ光るお月様を見ました事も間違い御座いませんので、それが夢でない証拠には、私のような老人が、あの真暗闇の松原の中を何にも引っかからずに通り抜けて、あの危なっかしい岩山の絶頂に登って寝ていたので御座いますからね。飲みさしの燗瓶もそこにちゃんと立っていたのですから月あかりを便りにした事は間違いないと思いますので……こればっかりは不思議で不思議で仕様がないので御座います。
 いいえ。どう致しまして。この年になるまで寝呆《ねぼ》けた事なんか只の一度も御座んせん。寝言一つ他に聞かれた事が無《ね》えんで……不思議といったってコンナ不思議な事は御座んせん。それに翌る日のくたびれようと、頭の痛み加減が又いつもと変っておりましたようで、口の中の変テコな臭いと味わいが丸で大病をしたアトのようで、ここへ這入ってからも飯が咽喉《のど》へ通らない位で御座いました。ヘイ。二日酔の気持とは丸で別なんで……ヘイ。勿体ない大恩人のお子さん御夫婦を殺すなんて大それた事を何で致しましょう。ロスコーさんの御夫婦には相当の財産が在ったには違い御座んせぬが、それがどこにどうして在るのやら私とは関係も御座んせぬし、知りも致しませぬ。
 私は今年七十一になりますが、そんな事をして娘や養子の一生涯に泥を塗るのが、どんなに馬鹿馬鹿しい、算盤《そろばん》に合わない話かわからないほど耄碌《もうろく》いたしてはおりませぬつもりなんで……ヘイ。どうぞ真平《まっぴら》、御勘弁を……」
 物語を終った東作爺が、煙草をモウ一本吸わしてもらって、熱いお茶を一杯御馳走になってから署長室を出て行くと、署長は心持赤面しいしい事件全体についての意見を、犬田博士に問うてみ
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