た。それにつれて列席していた判検事、特高課員、司法主任の連中も犬田博士の意見に対して敬意を払い初めたらしく眼を輝やかして固唾《かたず》を呑んだ。
しかし犬田博士はこの時に、まだ多くを云わなかった。
「これは案外平凡な事件かも知れませんな。……とにかく御差支のない限り、御都合のいい日に、今一度現場を見せて頂けますまいか。今|些《すこ》したしかめて見たい事もありますし、何か御参考になる事が見付かるかも知れませんから……」
「そうすると何か犯人に就ての御心当りでも……」
と横合いから司法主任が口を出した。熱心な司法主任は、犬田博士と東作の問答を傍観しているうちに、この事件に対する気分がスッカリ転換して、全然別の新しい観点から頭を働かせ初めたらしい。鋭い生々した瞳を輝かしていた。
しかし犬田博士は結論を急がなかった。思索を整理するかのように眼を閉じて頭を振った。
「いや。まだ判然《はっきり》しませぬ。ただこれは今の東作老人の初対面の印象を、医学上から来た一つの仮想を根拠として申上る事ですから、無条件でお取上になっては困るのですが、今の老人はドウモこの事件に関係はないようです」
「その仮想の根拠と仰言るのは……」
と司法主任が、すこし鋭く突込んだ。けれども犬田博士は依然として落着いていた。キチンと椅子に腰をかけたまま軽い、謎のような微笑を浮かべただけであった。
「東作が晦日《みそか》の夜に見た満月です」
その翌日は二百十日前の曇天で、外海も内海も一続きのトロ凪《な》ぎであった。
犬田博士、蒲生検事、市川判事、山口署長、司法主任、私服特高課員二名のほかに、逸早くこの事件を嗅付けて来た新聞記者一名を乗せた自動艇《モーターボート》が、R市の埠頭を離れて、なだらかな内海の上をグングンとS岬へ接近して行った。因《ちなみ》に前記の特高課員二名はこの事件に新聞記者を立入らせるのを非常に嫌っていたが、その記者を信用している犬田博士と山口老署長が新聞に一行も書かせない事を保証して、辛うじて同乗を承知させたものであった。一つにはその記者の感情を害すると、どこかで手酷《てきび》しい報復をされる事を、一同が恐れているせいでもあったろう。
S岬に到着する迄に犬田博士は、S岬の地理と、ロスコー家の間取を、参謀本部の五万分の一の地図と、司法主任の見取図を参考にしながら、出来るだけ詳細に亘っ
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