中のどれか一つをグラクスさんが妾の寝ている間に盗んで行ったのでしょう。妾との関係が切れないようにね。ホホホ」
 彼女は又もフーッと青臭い息を私にマトモに吹きかけた。
 私は固くなってドキンドキンと胸を躍らせながら……。
「……あたし主人と別れてからこっちというもの時々たまらない憂鬱に襲われることがあるの。あれが妾のヒステリーっていうものかも知れないけど、そのたんびに妾よく男装して方々に活動を見に行ったんですよ。ハンチングを冠ってロイドの色眼鏡をかけて、ニカボカを着るとまるで人相が変るんですからね。帝劇のトーキー披露会で貴方とスレ違ったこともあるわ……御存じなかったでしょう」
 私は正直にうなずいた。
「……ね……そうして不良少年《チンピラ》らしい顔立ちのいい少年《こども》を往来で見付けると、お湯に入れて、頭を苅らして、着物を着せて、ここへ連れて来るのが楽しみで楽しみで仕様がなくなったの……もっとも最初のうちは爪だけ貰うつもりで連れて来たんですけどね。そのうちに少年《こども》の方から附き纏って離れなくなってしまうもんですから困ってしまってカルモチンを服《の》ましてやったのです……そうして地下室の古井戸の中から、いい処へ旅立たしてやったんです。ここの地下室の古井戸は随分深い上にピッチリと蓋が出来るようになっていて、息抜きがアノ高い煙突の中へ抜け通っているんです。妾が設計したんですからね。誰にもわからないんですの。……でも貴方にはトウトウわかったのね……ホホホ……モウ随分前からの事ですからかなりの人数《にんず》になるでしょう……御存じの家政婦も入れてね……ホホホホホ……」
 私は見る見る血の気を喪《うしな》って行く自分自身を自覚した。タマラナイ興奮と、恐怖のために全身ビッショリと生汗《あせ》を流しながら、身動き一つ出来ずにいた。
 これに反して相手は一語一語|毎《ごと》に、その美くしさを倍加して行った。そうして話し終りながら如何《いか》にも誇らしげに立上ると、寝台《ベッド》のクションの間に白い両手を突込んで探りまわしていたが、そのうちに一冊の巨大な緞子《どんす》張りの画帳をズルズルと引っぱり出した。重たそうに両手で引っ抱えて来て石のように固くなっている私の膝の上にソッと置いて、手ずから表紙を繰りひろげて見せた。
 私は正直に白状する。重たい画帳を載せると同時に両方の膝頭がガクガクと戦《おのの》いているのに気が付いた。画帳を開こうとすると指がわなないて自由にならなかった。話にしか聞いた事のない恐ろしい変態殺人鬼が、現在タッタ今、眼の前に居ることをヤット意識し初めて……その殺人鬼に誘惑されながら、ドウする事も出来なくなっている自分自身を発見して……。
 未亡人は、そうした私の傍に突立ったまま嫣然《えんぜん》と見下していた。私の意気地なさを冷笑するかのように……私を圧迫して絶対の服従を命ずるかのように……。
 私は、そうした妖気に包まれながら、わななく指で左右の手袋の釦《ボタン》をシッカリとかけ直していたように思う。……何故ともなしに……そうして絹本《けんぽん》を表装した分厚い画帳を恐る恐る繰り拡げていたように思う。
 それは歴史画の巨匠、梅沢狂斎が筆を揮《ふる》った殷紂《いんちゅう》、夏桀《かけつ》、暴虐の図集であった。支那風の美人、美少女、美少年が、あらゆる残忍酷烈な刑に処せられて笞打たれ、絞め殺され、焙《あぶ》られ、焼かれ、煮《に》られ、引き裂かれ、又は猛獣の餌食にあたえられて行く凄愴、陰惨を極めた場面の極彩色密画であった。その一枚一枚|毎《ごと》に息苦しくなってゆくような……それでいて次の頁《ページ》を開かずにはいられないような……。
「ホホホ。感心なすって……。妾にそうした趣味を教えてくれたのはこの画帳なんですよ。もっとハッキリ云うと亡くなった主人なのよ。……主人は亡くなりがけに、自分が生きている間じゅう許さなかった女の楽しみをスッカリ妾に許して行ったんです。そんなにまで主人は妾を愛していたんですの……ですから妾は、そんな遊戯の真似を、この室《へや》でするたんびに、主人の霊魂がどこからか見守っていて、微笑していてくれるような気がしてならないのよ」
「……ウ――ム……」と私は唸《うな》った。同時に私の頭の中に高く高く積み重なっていた硝子《ガラス》器の山が一時にガラガラガラッと崩れ落ち始めたような気がした。
「……ね。安心なすったでしょう……ホホホホホこれだけ打ち明けたらモウいいでしょう」
 未亡人の声が神様のように高い処から響き落ちて来た。
 私はブルブルと身ぶるいをした。
 眼をシッカリと閉じた。
 画帳の上に突伏した。

 それから私がドンナ事をしたか順序を立てて書く事が出来ない。
 頭がグラグラするほど酔っていたことを記憶し
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング