一種異様な対照を作っているのであった。
「ホントウダホントウダ」「ふくれとるふくれとる」「ドレドレ俺にも見せろよ」「フーン誰の子だろう」「わかるものか」「俺ア知らんぞ」「嘘|吐《こ》け……お前の女だろうが」「馬鹿云えコン畜生」「シッシッ」
というようなボソボソ話が、又も浴場のまわりで起った。しかし親爺は耳が遠いので気がつかないらしく、黙って曲った右足を湯の中に突込んだ。お八重もそのあとから真似をするように右足をあげて這入りかけたが、フイと思い出したようにその足を引っこめると、流し湯へ跼《かが》んでシャーシャーと小便を初めた。
元五郎親爺はその姿を、霞《かす》んだ眼で見下したまま、妙な顔をしていたが、やがてノッソリと湯から出て来て、小便を仕舞《しま》ったばかりの娘の首すじを掴むと、その膨れた腹をグッと押えつけた。
「これは何じゃえ」
「あたしの腹じゃがな」
と娘は顔を上げてニコニコと笑った。クスクスという笑い声が又、そこここから起った。
「それはわかっとる……けんどナ……この膨れとるのは何じゃエ……これは……」
「知らんがな……あたしは……」
「知らんちうことがあるものか……いつから膨れたのじゃエこの腹はコンゲニ……今夜初めて気が付いたが……」
と親爺は物凄い顔をしてラムプをふりかえった。
「知らんがナ……」
「知らんちうて……お前だれかと寝やせんかな。おれが用達《ようた》しに行っとる留守の間《ま》に……エエコレ……」
「知らんがナ……」
と云い云いふり仰ぐお八重の笑顔は、女神のように美しく無邪気であった。
親爺は困惑した顔になった。そこいらをオドオド見まわしては新らしいラムプの光りと、娘の膨れた腹とを、さも恨めしげに何遍《なんべん》も何遍も見比べた。
「オラ知っとる……」「ヒッヒッヒッヒッ」
という小さな笑い声がその時に入口の方から聞えた。
その声が耳に這入ったかして、元五郎親爺はサッと血相をかえた。素裸体《すっぱだか》のまま曲った足を突張って、一足《いっそく》飛びに入口の近くまで来た。それと同時に、
「ワ――ッ」「逃げろッ」
という声が一時に浴場のまわりから起って、ガヤガヤガヤと笑いながら、八方に散った。そのあとから薪割用の古鉈《ふるなた》を提《ひっさ》げた元五郎親爺が、跛《びっこ》引き引き駆け出したが、これも森の中の闇に吸い込まれて、足音一つ聞こえなくなった。
その翌《あく》る朝の事。元五郎親爺は素裸体に、鉈をしっかりと掴んだままの死体になって、鎮守さまのうしろの井戸から引き上げられた。又娘のお八重は、そんな騒ぎをちっとも知らずに廃屋《あばらや》の台所の板張りの上でグーグー睡っていたが、親爺の死体が担ぎ込まれても起き上る力も無いようす……そのうちにそこいらが変に臭いので、よく調べてみると、お八重は叱るものが居なくなったせいか、昨夜《ゆうべ》の残りの冷飯《ひやめし》の全部と、糠味噌《ぬかみそ》の中の大根や菜《な》っ葉《ぱ》を、糠《ぬか》だらけのまま残らず平らげたために、烈しい下痢を起して、腰を抜かしていることがわかった。
そのうちに警察から人が来て色々と取調べの結果、昨夜《ゆうべ》からの事が判明したので、元五郎親爺の死因は過失から来た急劇|脳震盪《のうしんとう》ということに決定したが、一方にお八重の胎児の父はどうしてもわからなかった。
初めはみんな、撃剣を使いに行く青年たちのイタズラであろうと疑っていたが、八釜《やかま》し屋《や》の区長さんが主任みたようになって、一々青年を呼びつけて手厳しく調べてみると、この村の青年ばかりでなく、近所の村々からもお八重をヒヤカシに来ていた者があるらしい。それでお八重には郵便局という綽名《あだな》がついていることまで判明したので、区長さんは開いた口が塞《ふさ》がらなくなった。
すると、その区長さんの長男で医科大学に行っている駒吉というのが、ちょうどその時に帰省していて、この話をきくと恐ろしく同情してしまった。実地経験にもなるというので、すぐに学生服を着て、お八重の居る廃屋へやって来て、新しい聴診器をふりまわしながら親切に世話をし初めた。母親に頼んで三度三度お粥《かゆ》を運ばせたり、自身に下痢止めの薬を買って来て飲ませたりしたので「サテは駒吉さんの種であったか」という噂がパッと立った。しかし駒吉はそんな事を耳にもかけずに、休暇中毎日のようにやって来て診察していると、今度はその駒吉が、お八重の裸体の写真を何枚も撮って、机の曳出《ひきだ》しに入れていることが、誰云うとなく評判になったので、流石《さすが》の駒吉も閉口したらしく、休暇もそこそこに大学に逃げ返った。そうすると又、あとからこの事をきいた区長さんがカンカンに怒り出して、母親がお八重の処へ出入りするのを厳重にさし止めてしまった。
「お八重が子供を生みかけて死んでいる」という通知が、村長と、区長と、駐在巡査の家《うち》へ同時に来たのは、それから二三日経っての事であった。それは鎮守の森一パイに蝉の声の大波が打ち初めた朝の間《ま》の事であったが、その森蔭の廃屋へ馳けつけた人は皆、お八重の姿が別人のように変っていたのに驚いた。誰も喰い物を与えなかったせいか、美しかった肉付きがスッカリ落ちこけて、骸骨のようになって仰臥《ぎょうが》していたが、死んだ赤子の片足を半分ばかり生み出したまま、苦悶しいしい絶息したらしく、両手の爪をボロ畳に掘り立てて、全身を反《そ》り橋のように硬直させていた。その中《うち》でも取りわけて恐ろしかったのは、蓬々《ぼうぼう》と乱れかかった髪毛《かみのけ》の中から、真白くクワッと見開いていた両眼であったという。
「お八重の婿どん誰かいナア
阿呆鴉《あほうがらす》か梟《ふくろ》かア
お宮の森のくら闇で
ホ――イホ――イと啼《な》いている。
ホイ、ホイ、ホ――イヨ――」
という子守唄が今でもそこいらの村々で唄われている。
赤玉
「ナニ……兼吉《かねきち》が貴様を毒殺しようとした?……」
と巡査部長が眼を光らすと、その前に突立った坑夫体《こうふてい》の男が、両手を縛られたまま、うなだれていた顔をキッと擡《もた》げた。
「ヘエ……そんで……兼吉をやっつけましたので……」
と吐き出すように云って、眼の前の机の上に、新聞紙を敷いて横たえてある鶴嘴《つるはし》を睨みつけた。その尖端の一方に、まだ生々しい血の塊《かた》まりが粘りついている。
巡査部長は意外という面《おも》もちで、威儀を正すかのように坐り直した。
「フーム。それはどうして……何で毒殺しようとしたんか……」
「ヘエそれはこうなので……」
と坑夫体の男は唾を呑み込みながら、入口のタタキの上に、筵《むしろ》を着せて横たえてある被害者の死骸をかえりみた。
「私が一昨日《おとつい》から風邪を引きまして、納屋《なや》に寝残っておりますと、昨日《きのう》の晩方の事です。あの兼《かね》の野郎が仕事を早仕舞《はやじま》いにして帰って来て『工合はどうだ』と訊《き》きました」
「……ふうん……そんなら兼と貴様は、モトから仲が悪かったという訳じゃないな」
「……ヘエ……そうなんで……ところで旦那……これはもう破れカブレでぶちまけますが、大体あの兼の野郎と私との間には六百ケンで十両ばかりのイキサツがありますので……尤《もっと》も私が彼奴《あいつ》に十両貸したのか……向うから私が十両借りたのか……そこんところが、あんまり古い話なので忘れてしまいまして……チッポケナ金ですから、どうでも構わんと思っていても、兼の顔さえ見ると、奇妙にその事が気にかかってしようがなくなりますので……けんどそのうちに兼が何とか云って来たらどっちが借りたか、わかるだろうと思って黙っていたんですが……そんで……私は見舞いを云いに来た兼の顔を見ると又、その事を思い出しました。そうして……どうも熱が出たようで苦しくて仕様がない。こんな事は生れて初めてだから、事に依ると俺は死ぬんかもしれない……と云いますと兼の野郎が……そんだら俺が医者を呼んで来てやろうと云って出て行きましたが、待っても待っても帰って来ません。私は兼の野郎が唾を引っかけて行きおったに違いないと思ってムカムカしておりましたが、そのうちに十二時の汽笛が鳴りますと、どこかで喰らって真赤になった兼が、雨にズブ濡《ぬ》れになって帰って来て私の枕元にドンと坐ると、大声でわめきました。何でも……事務所の医者(炭坑医)は二三日前から女郎買いに失せおって、事務所を開けてケツカル……今度出会ったら向う脛をぶち折ってくれる……というので……」
「……フム……不都合だなそれは……」
「……ネエ旦那……あいつらア矢っ張り洋服を着たケダモノなんで……」
「ウムウム。それから兼はどうした」
「それから山の向うの村の医者ン所へ行ったら、此奴《こいつ》も朝から鰻《うなぎ》取りに出かけて……」
「ナニ鰻取り……」
「ヘエ。そうなんで……この頃は毎日毎日鰻取りにかかり切りで、家《うち》には滅多にうせおらんそうで……よくきいてみるとその医者は、本職よりも鰻取りの方が名人なんで……」
「ブッ……馬鹿な……余計な事を喋舌《しゃべ》るな」
「ヘエ……でも兼の野郎がそう吐《ぬ》かしましたので……」
「フーム。ナルホド。それからどうした」
「それから兼は、その村の荒物屋を探し出して、風邪引きの妙薬はないかちうて聞きますと……この頃風邪引きが大バヤリで売り切れてしまったが、馬の熱さましで赤玉《あかだま》ちうのならある。馬の熱が取れる位なら人間の熱にも利くだろうが……とその荒物屋の親仁《おやじ》が云うので買って来た……しかし畜生は薬がよく利くから、分量が少くてよいという事を俺はきいている。だから人間は余計に服《の》まなければ利くまいと思って、その赤玉ちうのを二つ買って来た。これを一時《いちどき》に服んだら大抵利くだろう。金は要らぬから、とにかく服んで見イ……と云ううちに兼は白湯《さゆ》を汲んで来て、薬の袋と一緒に私の枕元へ並べました。私は兼の親切に涙がこぼれました。このアンバイでは俺が兼に十円借りていたに違いないと思い思い薬の袋を破ってみますと、赤玉だというのに青い黴《かび》が一パイに生えておりまして、さし渡しが一寸近くもありましたろうか……それを一ツ宛《ずつ》、白湯で丸呑みにしたんですがトテも骨が折れて、息が詰まりそうで、汗をビッショリかいてしまいました」
「……フーム。それで風邪は治ったか」
「ヘエ……今朝《けさ》になりますと、まだ些《すこ》しフラフラしますが、熱は取れたようですから、景気づけに一パイやっておりますところへ、昨日《きのう》、兼からの言伝《ことづて》をきいたと云って、鰻取りの医者が自転車でやって来ました。五十位の汚いオヤジでしたが、そいつを見ると私は無性に腹が立ちましたので……この泥掘り野郎……貴様みたいな藪医者に用は無い。憚《はばか》りながら俺の腹の中には、赤玉が二つ納まっているんだぞ……と怒鳴りつけてやりましたら、その医者は青くなって逃げ出すかと思いの外《ほか》……ジーッと私の顔を見て動こうとしません」
「フーム。それは又|何故《なぜ》か」
「その爺《じじい》は暫く私の顔を見ておりましたが……それじゃあお前は、その二ツの赤玉を、いつ飲んだんか……と云ううちにブルブル震え出した様子なので、私も気味が悪くなりまして……ナニ赤玉には違いないが、青い黴の生えた奴を、昨夜《ゆんべ》十二時過に白湯で呑んだんだ。そのおかげで今朝はこの通り熱がとれたんだが、それがどうしたんか……とききますと医者の爺《じじい》はホッとしたようすで……それは運が強かった。青い黴が生えていたんで、薬の利き目が弱っていたに違いない。あの赤玉の一粒に使ってある熱さましは、人間に使う分量の何層倍にも当るのだから、もし本当に利いたら心臓がシビレて死んで終《しま》う筈だ……どっちにしても今酒を呑むのはケンノンだから止めろと云って、私の手を押えました」
「フーム。そんなもんかな」
「この話
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