ているのに心づかなかった。
久能は云った。――私は恋にやぶれて生きた死骸になった心持ちだけをこの鼓に籠めた。私の淋しい空《から》になった心持ちだけをこの鼓の音《ね》にあらわした。怨《うら》む心なぞは微塵《みじん》もなかった――と……。
しかしそれはあやまっていた。
久能が自分の気持ちソックリに作ったというこの鼓の死んだような音色……その力なさ……陰気さの底には永劫《えいごう》に消えることのない怨みの響きが残っている。人間の力では打ち消す事の出来ない悲しい執念の情調《こころ》がこもっている。それは恐らく久能自身にも心付かなかったであろう。無間《むげん》地獄の底に堕ちながら死のうとして死に得ぬ魂魄のなげき……八万奈落の涯をさまよいつつ浮ぼうとして浮び得ぬ幽鬼の声……これが恋に破れたものの呪いの声でなくて何であろう。久能の無念の響きでなくて何であろう。
百年前の、ある月の、ある日、綾姫はこの鼓を打って、この音をきいた。そうして眼にも見えず耳にも止まり難《にく》い久能の心の奥の奥の呪いが、云い知れぬ深い怨みをこめてシミジミ自分の心に伝わって来るのを只独り感じたのであろう。死ぬよりほかに
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