の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人《きちがい》になるか変人になるかどっちかだ。
 お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。
 おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。
 いいか……忘れるな……」

 私はお伽噺《とぎばなし》でも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔《おとな》しくうなずいてばかりいた。
 父は安心したらしかった。

 その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。
 老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。
 若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが
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