です。プラットホームで足立さんに会って挨拶をしていると、今の一件です。
 駅長さんが飛び出したもんですから、私もすぐその後へついて行った。この児が」といいかけてちょっと私の方を見て、「野郎に突き倒されるのを見ると、グッと癪《しゃく》に障《さわ》って男の襟頸《えりくび》を引っ掴んで力任せに投げ出したんです、するとちょうど隧道《トンネル》に支《つか》えた黒煙が風の吹き廻しでパッと私たちの顔へかかったんでどうなったか一切夢中でしたけれども、眼を開《あ》いて見ると可哀そうに野郎インバネスを着たまま横倒しに砂利の上に這《は》いつくばっている……」
「マア!」と言うて人のいい細君は眉を顰《ひそ》めた、私も敵《かたき》ながらこの話を聞いては、あんまりいい気もしなかった。
「それから足立さんと二人で、男を駅長室に連れ込んで談《はな》して見たところが、イヤどうも分らないの何のって、工学士と言えば、一通りの教育もありながら、あんまり馬鹿げていて、話にも何にもならないです」
「悪かったとも何とも言わないのですか」
「ヤレ駅夫が客に対してあんまり無法なことをするとか、ヤレ自分は工学士で汽車には慣れているから、大丈夫飛乗りぐらいは出来るとか、まるで酔漢《えいどれ》を相手にして話するよりも分らないのです。何しろ柔和《おとな》しい足立さんも今日はよほど激していたようでした」
 私は小林の談話《はなし》を聴いて、言いしれぬ口惜しさを覚えた。自分の職務というよりも、私があの紳士を制止したのは紳士の生命をあやぶんでのことではないか、私は弱き者の理由がかくして無下に蹂《ふ》み躙《にじ》られて行くのを思うて思わず小さい拳を握った。
「柔和しい足立さんの言うことが私にはもう、まだるっこくなって来たもんですから、手厳《てきび》しく談じつけてやろうとすると足立さんが待てというて制する。足立さんはそれから静かに理を分けてまるで三歳児《みつご》に言い聞かすように談すと野郎もさすがに理に落ちたのか、私の権幕に怖《お》じたのか、駅夫の負傷は気の毒だから療治代はいくらでも出すとぬかすじゃあありませんか」
 私は思わず涙の頬に流れるのを禁じ得なかった、療治代は出してやる、私はつくづく人の心の悲しさを知った。さすがに人のいい細君も「マア何という人でしょう!」というてホッと吐息を漏らした。
「ところが驚くじゃあありませんか、私と足立さんとが、決して金を請求するためにこんなことを言うたのじゃあない、療治代を貰いたいために話したのじゃあないと言うと、野郎|怪訝《けげん》な顔をしているのです。それから何と言うかと思うと、おれは日本鉄道の曽我とは非常に懇意の間《なか》だ、何か話しがあるならば曽我に挨拶しようと言う。私はもうグッと胸が塞《つま》って来ましたから、構うことはないもうやっつけてしまえと思ったのですけれども、足立さんがしきりに止める。私も駅長の迷惑になるようではと思いかえして腕力だけはやめにして出て来たんです」
 話しているところへ駅長が微笑を含んで入って来た。
「曽我祐準の名をよほどわれわれが怖がるものと思うたのか、曽我曽我と言い通して腕車《くるま》で逃げ出してしもうたよ」と言いながら駅長は制服のまま、小林と並んで縁側に腰を下したが、「どうも立派な顔はしていても、話して見ると、あんな紳士が多いのだからな」と言うたが思い出したように私の方を見て、
「傷はどうだい、あんまり大したこともあるまい、今、岡田に和服《きもの》を取りに行ってもらうことにした」
 短かい秋の日はもう暮れかけて、停車場では電鈴がさも忙しそうに鳴り出した。

     十三

 栗の林に秋の日のかすかな大槻医師の玄関に私はひとり物思いながら柱に倚《よ》って、薬の出来るのを待っている。
「もういいのよ……」どこかで聞き覚えのある、優しい処女《おとめ》の声が、患者控室に当てた玄関を距《へだ》てて薬局に相対《むきあ》った部屋の中から漏れて来たが、廊下を歩く気配がして、しばらくすると、中庭の木戸が開いた。
 高谷千代子の美しい姿がそこへ現われた。いつにない髪を唐人髷《とうじんまげ》に結うて、銘仙の着物に、浅黄色の繻子《しゅす》の帯の野暮《やぼ》なのもこの人なればこそよく似合う。小柄な体躯《からだ》をたおやかに、ちょっと欝金色《うこんいろ》の薔薇釵《ばらかざし》を気にしながら振り向いて見る。そこへ大槻が粋《いき》な鳥打帽子に、紬《つむぎ》の飛白《かすり》、唐縮緬《とうちりめん》の兵児帯《へこおび》を背後《うしろ》で結んで、細身の杖《ステッキ》を小脇《こわき》に挾《はさ》んだまま小走りに出て来たが、木戸の掛金を指《さ》すと二人肩を並べて、手を取るばかりに、門の方に出て行くのである。
 千代子は小さい薬瓶を手巾《ハンケチ》に包んでそれに大槻の描いた水彩画であろう半紙を巻いたものを提《さ》げている。私はハッとしたが隠れるように項垂《うなだ》れて、繃帯のした額に片手を当てたが、さすがにまた門の方を見返した。
 私が見返した時に、二人はちょうど今門を出るところであったが、一斉《いっせい》に玄関の方を振り向いたので、私とパッタリ視線が会うた。私は限りなき羞かしさに、俯向いたまま薬局の壁に身を寄せた。
 きのうまで相知らなかった二人がどうして、あんな近附きになったのであろう、千代子が大槻を訪ねたのか、イヤイヤそんなことはあるまい、私は信じなかったが世間の噂では大槻は非常に多情な男で、これまでにもう幾たびも処女を弄《もてあそ》んだことがあるという、そう言えばこの間も停車場《ステーション》でわざわざ千代子の戸《ドアー》を開けてやったところなど恥かしげもなく、あつかましいのを見れば大槻が千代子を誘惑したに相違ない。それにしても何と言うて言い寄ったろうか。
 千代子が大槻のところへどこか診察してもらいに行って、この玄関に待ち合わしているところへ大槻が奥から出て来て物を言いかけたに違いない、「マアこっちへ来て画でも見ていらっしゃい」などと言う、大槻はいい男だし、それにあの才気で口を切られた日には、千代子でなくとも迷わない者はあるまい。
 佳人と才子の恋というのはこれであろう、大槻が千代子を恋うるのが無理か、千代子が大槻を慕うのが無理か、たとえば絵そらごとに見るような二人の姿を引きくらべて見て私はさらに、「私が千代子を恋するのは無理ではないだろうか」と、われとわが心に尋ねて見たが、今まで私の思うたことのいつか恐ろしい嫉妬《ねたみ》の邪道《よこみち》に踏み込んでいたのに気がつくと、私はもう堪えかねて繃帯の上から眼を蔽《おお》うて薬局の窓に俯伏した。
「藤岡さん、薬が出来ましたよ」と書生は薬を火燈口から差し出してくれたが、私の姿をあやぶんで、
「また痛みますか、どうしたんです?」と窮屈そうに覗《のぞ》きながら尋ねる。
「いいえ、どうも致しません」と私は簡単に応《こた》えて大槻の家の門を出たが、水道の掘割に沿うて、紫苑《しおん》の花の咲きみだれた三田村の道を停車場の方にたどるのである。
 私はなぜに千代子のことを想《おも》うてこんなに苦しむのだろう、私はゆめあの女《ひと》を恋してはいない、私がいつまでもいつまでもあの女のことを思うたにしてもそれは思うばかりで、それでつまりがどうしようというのでもない、恋してもいない人のことをなぜこんなに気にするのだろう。
 それともこれが恋というものであろうか。
 私の耳には真昼の水の音がさながらゆめのように聞えて、細い杉《すぎ》の木立から漏れて来る日の光が、さながら月夜の影のように思いなされた。

     十四

 私の傷はもう大かた癒《い》えた、次の月曜日あたりから出勤しようと思うて、午後駅長の宅《うち》を訪ねて見た。細君が独りで板塀の外で張り物をしていたが、私が会釈《えしゃく》するのを見て、
「今日は留守ですよ、非番でしたけれども本社の方から用があるというて来ましたので朝出かけたままですよ」
「どんな御用でしょう、この間の事件《こと》ではないでしょうか」
「サア、宅の人もそう言うていましたがね、ちっとも心配することはないと言うて出て行きましたよ」とさりげなく言うたけれども、私は細君の眉のあたり何となく晴れやらぬ憂いの雲を見た。
 私はこのいい細君が襷《たすき》をあやどって甲斐甲斐《かいがい》しく立ち働きながらも、夫の首尾を気づこうて、憂いを胸にかくしている姿を見て、しみじみと奉職《つとめ》の身の悲しさを覚えて、私のし過しから足立駅長のような善人が、不慮の災難を被《き》ることかと思うと、身も世もあられぬような想いがした。
「心配なことはないでしょうか」
「大丈夫でしょう」と言うたが、顔を上げて、
「もう快《い》いのですか」
「ええ明後日あたりから出勤することにしたいと思いまして……」

     *    *    *

 その夜の月はいと明るかった。
 駅長は夕方帰って来たが、きょうは好きな謡曲もやらないで、私の訪ねるのを待っていろいろその日の首尾を話してくれた。
 要するに、私の心配したほどでもなかったが、駅長は言うべからざる不快を含んで帰って来たらしい。
 この間の工学士というのは品川に住んでいた東京市街鉄道会社の技師を勤めている蘆鉦次郎《ろしょうじろう》という男で、三十二年の卒業生であるそうだ、宮内省に勤めた父親の関係から、社長の曽我とも知己《しりあい》の間《なか》でこの間の失敗《しくじり》を根に持ってよほど卑怯な申立てをしたものと見えて、始めは大分事が大げさであったのを、幸いに足立駅長が非常に人望家であったために、営業所長が力を尽して調停《とりな》してくれてやっと無事に済んだということであった。
 そういう首尾では駅長が不快に思うのも無理はない、私は非常に気の毒に思うて、私が悪いのだから、私が職を罷《や》めたならば、上役の首尾も直るでしょうと言えば、駅長はすぐ打ち消して、かえって私を慰めた上に、いろいろ行末のことも親切に話してくれた。
 私は駅長の問うにまかせて、私の身の上話をした。月影のさす秋の夜に心ある夫婦の前で寂しい来しかたの物語をするのは私にとって、こよなき歓楽《よろこび》であった。
 私の父は静岡の者で、母はもと彦根の町のさる町家の娘で、まだ禿《かむろ》の時分から井伊の城中に仕えてかの桜田事件の時にはやっと十八歳の春であったということ、それから時世が変って、廃藩置県の行われたころには井伊の老臣の池田某なるものに従うて、遠州浜松へ来た。
 池田某が浜松の県令に撰抜されたからで、母は桜田の騒動以来、この池田某に養われていたのであった。
 母はここで縁があって父と結婚して、長い御殿奉公を止めて父と静岡にかなりの店を開いて、幸福に暮していた。母の幸福な生活というのは実にこの十年ばかりの夢に過ぎなかったので、私は想うて母の身の上に及ぶと、世に婦人の薄命というけれど、私の母ばかり不幸な人は多くあるまいと思わぬ時はないのである。
 父が死んでから、私たち母子《おやこ》は叔父の家に寄寓して言うに言われぬ苦労をしたが、私は小学校を出て叔父の仕事の手伝いをしている間も深く自分の無学を羞《は》じて、他人ならば学校盛りの年ごろを、いたずらに羞かしい労働に埋《うも》れて行くことを悲しんだ。私がだんだん年ごろとなるに連れて叔父との調和《おりあい》がむずかしく若い心の物狂わしきまでひたすらに、苦学――成功というような夢に憧れて、母の膝に嘆き伏した時は、苦労性の気の弱い母もついに私の願望《ねがい》を容れて、下谷の清水町にわびしく住んでいる遠縁の伯母をたよりに上京することを許してくれた。
 去年の春下谷の伯母を訪ねて、その寡婦《やもめ》暮しの聞きしにまさる貧しさに驚かされた私は、三崎町の「苦学社」の募集広告を見て、天使の救いにおうたように、雀躍《こおどり》して喜んだ。私は功名の夢を夢みて「苦学社」に入った。
 母の涙の紀念《かたみ》として肌身《はだみ》離さず持っていたわずかの金を惜しげもなく抛《な》げ出して入社した三崎
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