女を相手に聞きぐるしい、恥かしいことを語りおうていたが、果てはさすがに口へ出しては言いかねるものと見えて、小さい紙片に片仮名ばかりで何やら怪しいことを書きつけては渡してやる。
 女はそれを拾い読みに読んでは娯《たの》しんでいる。その言いしれぬ肉のおもい[#「おもい」に傍点]を含んだ笑い声が、光の薄い湿っぽい待合室に鳴り渡って人の心を滅入《めい》らすような戸外《そと》の景色に対《くら》べて何となく悲しいような、またあさましいような気がして来る。
「あれ――河合さん嫌《いや》だよ、よう! 堪忍してよう!」と賤しい婦人《おんな》の媚《こ》びるような、男の心を激しく刺激するような黄いろい声がするかと思うと、ほかの連中が、ワッと手をたたいて笑う、
「もう雷様が鳴らなけりゃあ離れない、雷様が」と河合が圧《お》しつけるような低い声で言う。
「謝ったよう! 謝った」と女は泣くように叫ぶ。一番|年量《としかさ》の、多分高谷の姿でも真似たつもりだろう、髪を廂《ひさし》に結うて、間色のリボンを付けたのが、子を負ったまま、腰を屈めて、愛嬌の深い丸顔を真赤にしてしきりに謝っている。
 見ると女はどうしたものか火燈口から右の手を河合に取られている。河合はその手をギュッと握って掌へ筆で何か描こうとしている。
「痛いじゃあないか、謝ったからよう! あれ――あんなものを書くよう……」
 雨はまた一としきり硝子窓を撲《う》つ、淋しい秋の雨と風との間に猥《みだ》りがましい子守女の声が絶えてはまた聞えて来る。
 私の机の下の菰包《こもづつ》みの蔭では折ふし思い出したように虫の音がする。
 ふと見ると便所の方に向いた窓の硝子に人影が射したので、私はツイと立って軒伝いに冷たい雨の頻吹《しぶき》を浴びながら裏の方に廻って見ると、青い栗《くり》の毬彙《いが》が落ち散って、そこに十二三歳の少年《こども》が頭から雫《しずく》のする麦藁《むぎわら》帽子を被《かぶ》ってションボリとまだ実の入らぬ生栗を喰べている。
 秋もやや闌《た》けて、目黒はもうそろそろ栗の季節である。

     九

 見れば根っから乞食《こじき》の児《こ》でもないようであるのに、孤児《みなしご》ででもあるのか、何という哀れな姿だろう。
「おい、冷めたいだろう、そんなに濡《ぬ》れて、傘《かさ》はないのか」
「傘なんかない、食物だってないんだもの」といまだ水々しい栗の渋皮をむくのに余念もない。
「そうか、目黒から来たのか、家はどこだい父親《ちゃん》はいないのか」
「父親なんかもうとうに死んでしまったい。母親《おっかあ》だけはいたんだけれど、ついとうおれを置いてけぼりにしてどこかへ行ってしまったのさ、けどもおらアその方が気楽でいいや、だって母親がいようもんならそれこそ叱《しか》られ通しなんだもの」
「母親は何をしていたんだい」
「納豆《なっとう》売りさ、毎朝|麻布《あざぶ》の十番まで行って仕入れて来ちゃあ白金の方へ売りに行ったんだよ、けどももう家賃が払えなくなったもんだから、おればっかり置いてけぼりにしてどこかへ逃げ出してしまったのさ」
「母親一人でか?」
「小さい坊やもつれて!」
「どこに寝ているのか」
「昨夜《ゆうべ》は大鳥様へ寝た」と権之助坂の方を指さして見せる。
 私はあまりの惨《いた》ましさに、ポケットから白銅を取り出してくれてやると少年は無造作に受け取って「ありがとう」と言い放つとそのまま雨を衝いて長峰のおでん屋の方に駆けて行ってしまった。
 見送ってぼんやりと佇んでいると足立駅長が洋服に蛇《じゃ》の目《め》の傘をさして社宅から来かけたが、廊下に立ってじっと私の方を見ていた。雨垂れの音にまぎれて気がつかなかったが、物の気配に振り向くとそこに駅長が微笑を含んでいた。
 今の白銅は私が夕飯のお菜《かず》を買うために持っていたので、考えて見ると自分の身に引き比べて何だか気羞かしくなって来た。コソコソと室に入って椅子によると同時に大崎から来た開塞の信号が湿っぽい空気に鳴り渡った。乗客《のりて》は一人もない。

     十

 雨がやむと快晴が来た。
 シットリと濡れた尾花が、花やかな朝日に照りそうて、冷めたい秋風が一種言いしれぬ季節の香を送って来る。崖の上の櫨《はじ》はもう充分に色づいて、どこからとなく聞えて来る百舌鳥《もず》の声が、何となく天気の続くのを告げるようである。
 今日は日曜で、乗客が非常に多い。午後一時三十五分品川行きの列車が汽笛を鳴らして運転をはじめたころ、エビスビールあたりの帰りであろう、面長の色の浅黒い会社員らしい立派な紳士が、眼のあたりにポッと微薫を帯びて、洋杖《ステッキ》を持った手に二等の青切符を掴んで階壇を飛び降りて来た。
「危険《あぶない》! もうお止しなさい※[#感嘆符三つ、447−下−14] 駄目《だめ》です駄目《だめ》です!」と私は一生懸命に制止した。
 紳士は微酔《ほろよ》い機嫌《きげん》でよほど興奮しているものと見えて、私のいうことをさらに耳に入れない。行きなり疾走をはじめた二等室を追いかけて飛び乗りをしようとする。私はこの瞬間|慥《たし》かに紳士の運命を死と認めた。
 よし救え! 私は立ちどころに大胆な決心をした。
 まさに紳士が走り出した汽車の窓に手をかけようとした刹那《せつな》、私は紳士のインバネスの上から背後《うしろ》ざまに組みついた。
「な、な、何をするか! 失敬な※[#感嘆符三つ、448−上−2] こやつ……」
「お止しなさい、危険《あぶない》です※[#感嘆符三つ、448−上−3]」
 駅長も駆けつけた。
 けれどもこの時紳士は男の力をこめて私を振り放したが、かっとして向き返ると私の胸を突き飛ばした。私は突かれるとそのまま仰向けに倒れたので、アッという間もなく、柱の角に後頭部をしたたか打ちつけた。

     *    *    *

 仮繃帯《かりほうたい》の下から生々しい血汐《ちしお》が潤《にじ》み出して私はいうべからざる苦痛を覚えたが、駅長の出してくれた筧《かけい》の水をグッと飲み干すとやや元気づいて来た。
 汽車はもう遠く去ったけれども、隧道《トンネル》の口にはまだ黒い煙が残っている。見ると紳士の顔にもしたたか泥が付いて、恐ろしい争闘《いさかい》でもした跡のよう、顔は青褪《あおざ》めて、唇には血の気の色もない、俯向いてきまりが悪そうに萎《しお》れている。口髯《くちひげ》のやや赤味を帯びたのが特長で、鼻の高い、口もとに締りのある、ちょっと苦味走った男である。
 紳士の前に痩身《やせぎす》の骨の引き締った三十前後の男が茶縞《ちゃじま》の背広に脚袢《きゃはん》という身軽な装束《いでたち》で突き立ったまま眼を光らしている。鳥打帽子の様子といい、草鞋《わらじ》をはいたところといいどこから見ても工夫の頭《かしら》としか見えない。
「どうだ上まで歩かれるか、大丈夫だろう洗って見たら大した傷でもあるまい」と駅長が優しくいうので、私も気を取り直して柱を杖に立ち上った。
 傷は浅いと見えてもうあまり眩暈《めまい》もしない。「もう大丈夫です」と答えると、駅長はちょっと紳士の方を向いて、
「どうかちょっとお話し致したいことがございますから」というと紳士は黙って諾《うなず》いた。
「じゃあ君もね」と工夫頭の方を向いて駅長が促した。その親しげなものの言い振りで私ははじめて、二人が知己《しりあい》であるということを知った。
 駅長は親切に私をいたわって階壇を昇《のぼ》るとその後から紳士と工夫頭とがついて来た。壇を昇りきると岡田が駆けて来て、
「大槻さんが今すぐに参りますそうで」と駅長の前に呼気《いき》を切りながら復命した。

     十一

 私はそのまま駅長の社宅に連れて行かれて、南向きの縁側に腰を下すと、駅長の細君が忙わしく立ち働いていろいろ親切に手を尽してくれる。
 そこへ罷職軍医の大槻|延貴《のぶたか》というのがやって来て、手当てにかかる。私はジッと苦痛《くるしみ》を忍んだ。
 手術はほどなく済んで繃帯も出来た。傷は案外に浅くって一週間ばかりで全治するだろうという話、細君の汲んで来た茶を飲みながら大槻は傍にいた岡田を相手に、私が負傷した顛末《てんまつ》を尋ねると細君も眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら熱心に聞いていたが、
「マア、ほんとうに危険《あぶな》いですね、――それにしても藤岡さんがいなけれゃあ、その人は今ごろもうどうなっているか分りませんね」
「何にしろ、すぐ隧道《トンネル》になるのですからね、どうしたって助かるわけはないです」と岡田が口を入れる。
「危険《あぶない》ですな! 汽車も慣れるとツイ無理をしたくなって困るのです」と大槻はいうたが、細君と顔を見合わせて、さて今まで忘れていたように互いに時候の挨拶をする。
 大槻は年ごろ五十歳あまり、もと陸軍の医者で、職を罷《や》めてからは目黒の三田村に遷《うつ》り住んで、静かに晩年を送ろうという人、足立駅長とは謡曲の相手で四五年|以来《このかた》の交際《つきあい》であるそうだ。
 大槻芳雄というのは延貴の独《ひと》り息子《むすこ》で、少からぬ恩給の下る上に遺産もあるので、出来るだけ鷹揚《おうよう》には育てたけれど、天性《うまれつき》才気の鋭い方で、学校も出来る、それに水彩画がすきでもし才気に任せて邪道に踏み込まなかったならばあっぱれの名手となることだろうと、さる先輩は嘆賞した。けれどもこの人の欠点をいえばあまり画才に依頼しすぎて技術の修練をおろそかにするところにある。近ごろ大槻はある連中とともに日比谷公園の表門に新設される血なまぐさいパノラマを描いたとかいうので朋友《なかま》の間には、早くもこの人の前途に失望して、やがては、女のあさましい心を惹《ひ》くために、呉服屋の看板でも描くだろうというような蔭口をきく者もあるそうである。
 岡田はしばらくするうちに、停車場《ステーション》の方に呼ばれて行く、大槻軍医も辞し去ってしもうた。後で駅長の細君は語を尽して私を慰めてくれた。細君というのは年ごろ三十五六歳、美人というほどではないけれども丸顔の、何となく人好きのするというたような質である。
「下宿にいちゃあ何かと困るでしょう、どうせ一週間ばかりなら宅《うち》にいて養生してもいいでしょう、ね、宅でも大変お前さんに見込みをつけていろいろお国の事情なんかも聞いて見たいなんて言うていましたよ」
「え、ありがとう、しかしこの分じゃあ大した傷でもないようですから、それにも及びますまい、奥様にお世話になるようではかえって恐れ入りますから」
「何もお前さん、そんな遠慮には及ばないよ、ちっとも構やあしないんだから気楽にしておいでなさいよ」細君は一人で承知している。
 ブーンとものの羽音がしたかと思うとツイ眼の先の板塀で法師蝉《ほうしぜみ》が鳴き出した。コスモスの花に夕日がさして、三歩の庭にも秋の趣はみちみちている。
「オ※[#感嘆符三つ、450−上−4] 奥さんですか、今日はとんだことでしたね」と言う声に見ると、大槻が開け放して行った坪の戸から先刻《さっき》プラットホームで見受けた工夫頭らしい男が、声をかけながら入って来たのであった。細君は立ち上って、
「マア小林さん、今日は……随分久しぶりでしたね」という口で座蒲団を出す。小林はちょっと会釈して私を繃帯の下からのぞくようにして、
「どうだい君! 痛むかい、乱暴な奴もあるもんだね」
「え、ありがとう、なに大したこともないようです」
「傷も案外浅くてね、医者も一週間ばかりで癒《なお》るだろうって言うんですよ」と細君が口を添える。
「奥さん、今日は僕も関係者《かかりあい》なんですよ」
「エ! どうして?」とポッチリとした眼をみはる。
「あんまり乱暴なことをしやあがるので、ツイ足がすべって野郎を蹴倒《けたお》したんです」と言うたが細君の汲んで出した茶をグッと飲み干す。私は小耳を引っ立てて聴いている。

     十二

「今度複線工事のことについてちょっと用事が出来てここまでやって来たの
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