町の苦学社を逃げ出して再び下谷の伯母の家に駆け込んだ時は、自分ながら生命のあったのを怪しんだほどである。私は初めて人間の生血を吸《と》る、恐ろしい野獣《けもの》の所為をまのあたり見た。
坂本町に住む伯母の知己《しりあい》の世話で私が目黒の駅に務めることになったのは、去年の夏の暮であった。私はもう食を得ることよりほかにさしあたりの目的《あて》はない。功名も、富貴も、それは皆若い私の夢であった、私はもう塵《ちり》のような、煙のような未来《ゆくすえ》の空想を捨てて、辛い、苦しい生存《ながらえ》の途《みち》をたどらなければならないのだ。私の前には餓死《がし》と労働の二つの途があって私はただ常暗《とこやみ》の国に行くために、その途の一つをたどらなければならないのだ。
駅長も細君も少からぬ同情をもって私の話を聞いてくれた。やや寒い秋の夜風が身にしみて坪の内には虫の声が雨のようである。
十五
その夜駅長は茶を啜《すす》りながら、この間プラットホームで蘆《ろ》工学士を突き倒した小林浩平の身の上話をしてくれた、私がただ学問とか栄誉とかいうはかないうつし世の虚栄を慕うて、現実の身を愧《
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