なるだろう。
 かの筧《かけい》の水のほとりには、もう野菊と紫苑《しおん》とが咲き繚《みだ》れて、穂に出た尾花の下には蟋蟀《こおろぎ》の歌が手にとるようである。私は屈《かが》んで柄杓《ひしゃく》の水を汲み出して、せめてもの思いやりに私の穢い手を洗った。
「おい藤岡! あんまりめかしちゃあいけないよ、高谷さんに思いつかれようたッて無理だぜ」
 助役は別に深い意味で言うたわけでもなかったろうけれど、私にとっては非常に恐ろしい打撃であった。ほとんど脳天から水を浴びせられたように愕然《ぎょっ》として見上げると磯は、皮肉な冷笑を浮べながら立っていた。
「お千代さんがよろしくって言ったぜ、どうも御親切にありがとうッて……」
「だって私は自分の……」
とまでは言うたが、あとは唇《くちびる》が強張《こわば》って、例えば夢の中で悶《もだ》え苦しむ人のように、私はただ助役の顔をジッと見つめた。
「君! 腹を立てたのか、馬鹿な奴だ、そんなことで上役に怒って見たところで何になる」
 私は怒ったわけじゃなかッたけれども、助役の語があまり烈《はげ》しく私の胸に応《こた》えたので、それがただの冗談とは思われなかった
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