とあつて、橋掛の方を振返り、長絹を顔に推しあてて悲歎の涙にくれる。
『装束着せ』のものが切戸から出て来て、松風に水衣を脱がせ、長絹に小烏帽子を着せる。松風は今作物の松を見上げて、『三瀬河絶えぬ涙の憂き瀬にも乱るる恋の淵はありけり』と歌ひ始める。松風……いな松風の麗はしい幽霊は狂してゐるのである。彼女は『あら嬉しやこれに行平の御立あるが、松風と召されさぶらふぞやいで参らう』と、立上つて松を目掛けて行かうとする。村雨はさうでないと松風に諭す。松風は『うたての人の言事や、あの松こそは行平よ、たとひ暫しは別るるとも、松とし聞かば帰りこんと連ね給ひし言の葉は如何に』といふ。村雨も『げになふ忘れてさぶらふぞや』といつて、心が乱れて来る。これよりイロエ掛り中の舞となつて、『いなばの山の峯に生ふる松とし聞かば今帰り来ん、それは因幡の遠山松』と、松風村雨は遠く橋掛の方を眺める。
『これはなつかし君ここに』と作物の松に胸ざしする。『須磨の浦わの松の行平』と右の方を向いて、須磨の浦を見渡す様子をする。『立ち帰りこは我も木陰に』と右へ廻り、『いざ立ちより磯馴松』と作物の松の側に寄り添ひ、松に両袖かけて、『なつ
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