生命はこの橋掛にある。橋掛で芸術的効果を納めない曲は、不成功な作品であると言つても過言でない。舞台に比較して素敵に長いこの橋掛ぐらゐ暗示的なものは、世界の舞台芸術いづれを尋ねても見当るまい。女性に扮する能役者が白い足袋をはいて、静かだが音律的にこの掛橋を歩む工合を見て、私はいつも『なんといふ女性的香気のある歩み工合であらう、小股の内気な運び工合は実に天下一品だ……この歩み工合だけでも、芸術として世界に誇ることが出来る』と思はないことがない。遠方から足だけを眺めてゐると、(実際に私は喜多六平太君が女性に扮する時、その足だけを見てゐることがある、)まるで白い二つの魚が泳いでゆくやうだ。かういふ天下一品の足をした松風村雨が、今橋掛から舞台に入るのである……『里離れなる通路の月より外は友もなし』と歌つて、彼等の心と環境とを貫く寂しさを語り、『汐汲車よるべなき身は海士人の袖ともに思ひを乾さぬ心かな』と、自分達の心細い生活を歎きかこつ。
天には寂しく光る秋の月が懸つてゐる。彼等は『羨ましくも澄む月の出汐をいざや汲まうよ』と渚に近寄る。彼等は自分等の浅ましい姿が、月夜の水に映るのを見て恥ぢる。然し
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