びに、日高見《ヒタカミ》の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおく[#「みちのおく」に傍線]との境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世《トコヨ》を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。
書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世《トコヨ》と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様《すぐさま》意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世《トコヨ》の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵《アヂマサ》の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣《ハヽ》が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪《ウナザカ》の末に、わたつみの国[#「わたつみの国」に傍線]と言ふ、常世《トコヨ》を観ずる様になつて来た。いろこの宮[#「いろこの宮」に傍線]を、さながら常世《トコヨ》と考へることは、やはり後の事であるらしい。
鰭《ハタ》の広物《ヒロモノ》・鰭《ハタ》の狭物《サモノ》・沖の藻葉・辺《ヘ》の藻葉、尽しても尽きぬわたつみの国[#「わたつみの国」に傍線]は、常世と言ふにふさはしい富みの国土である。曾ては、妣《ハヽ》が国として、恋慕の思ひをよせた此国は、現実の悦楽に満ちた楽土として、見かはすばかりに変つて了うた。けれども、ほをりの命[#「ほをりの命」に傍線]の様な、たま/\択ばれた人ばかりに行かれて、凡人には、依然たる常世の国として懸つて居た。富みの国であるが故に、貧窮《マチ》を司る事も出来たのが、わたつみの神[#「わたつみの神」に傍線]の威力であつた。ほをりの命[#「ほをりの命」に傍線]の授つて来られたのは、汐の満ち干る如意宝珠ばかりでなく、おのが敵を貧窮ならしめ、失敗せしめる呪咀の力であつた。
扨《さて》又、あめのひぼこ[#「あめのひぼこ」に傍線]の齎《もたら》した八種《ヤクサ》の神宝を惜しみ護つた出石《イヅシ》人の妣《ハヽ》が国は、新羅ではなくて、南方支那であつたことは、今では、討論が終結した。其|出石《イヅシ》人の一人で国の名を負うたたぢまもり[#「たぢまもり」に傍線]の、時じくの香《カグ》の木実《コノミ》を取り来よとの仰せで渡つたのは、橘実る妣《ハヽ》が国なる南の支那であつた。出石《イヅシ》人の為の妣が国は、大和人には常世の国[#「常世の国」に傍線]と感ぜられて居たのである。此処に心とまることは、此常世が、なり物の富みの国であつたばかりでなく、唯一点だが、後の浦島[#(ノ)]子[#「浦島[#(ノ)]子」に傍線]の物語と似通ふ筋のあることである。八縵《ヤカゲ》・八矛《ヤホコ》のかぐのこのみ[#「かぐのこのみ」に傍線]を持つて、常世から帰りついた時は、既に天子崩御の後であつた。「命《オホ》せの木の実を取つて、只今参上」と復奏した儘《まま》、御陵の前に哭き死んだと言ふ件は、常世と、われ/\の国との間で、時間の目安が違うて居たと言ふ考へが、裏に姿をちらつかせて居る様である。極々内端に見積つても、右の話から、此だけの事は、引き出すことが出来る。地上の距離遥かな処に、常世の国[#「常世の国」に傍線]を据ゑて考へたこと、従つて、其処への行きあしは、手間どらねばならぬはず、往復に費した時間をあたまに置かないで、此土に帰りついた時の様子を、彼地に居た僅ばかりの時間にひき合せて見れば、なる程たまげる程の違ひが、向うと此方との時間の上にある。
たぢまもり[#「たぢまもり」に傍線]の話は、一見浦島のに比べれば、理窟には適うて居る。其かと言うて、橘を玉櫛笥の一つ根ざしと見るはまだしも、此を彼の親根と考へては、辻褄が合ひ過ぎる。常世[#「常世」に傍線]の中路《ナカミチ》は、時間勘定のうちには這入つて居ない。目を塞いだ間に行き尽すことが出来るのも、其為である。粟稈《アハガラ》の謂はゞ一弾みにも、行き着かれる。此不自然な昔人の考へを、下に持つた物語として見なければ、香《カグ》の木実《コノミ》ではないが、匂ひさへも※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぎ知ることが出来ないであらう。して見れば、古人の目《メ》の子《コ》勘定を、今人の壺算用に換算することは、其こそ、杓子定規である。此事こそは、世界共通の長寿の国の考へに基いて居るのである。常世人に、あやかつて、其国人と均しい年をとつ
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