妣が国へ・常世へ
異郷意識の起伏
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)祖《オヤ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)祖先|精霊《シヤウリヤウ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「((山/追のつくり)+辛)/子」、第4水準2−5−90]《ひこば》えして

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)浦島[#(ノ)]子

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\の
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     一

われ/\の祖《オヤ》たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。而《しか》も、とんぼう髷を頂に据ゑた祖父《ヂヾ》・曾祖父《ヒヂヾ》の代まで、萌えては朽ち、絶えては※[#「((山/追のつくり)+辛)/子」、第4水準2−5−90]《ひこば》えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦《ウネ》りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。併《しか》し見よ。そこり[#「そこり」に傍点]に揺るゝなごりには、既に業《スデ》に、波の穂うつ明日《アス》の兆しを浮べて居るではないか。われ/\の考へは、竟《ツヒ》に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の祖々《オヤ/\》の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、尠《すくな》くとも真実ではない。幾多の祖先|精霊《シヤウリヤウ》をとまどひさせた明治の御代の伴《バン》大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間のとてつもない[#「とてつもない」に傍点]出世に、苔の下の長夜《チヤウヤ》の熟睡《ウマイ》を驚したくないものである。
われ/\の文献時代の初めに、既に見えて居た語《ことば》に、ひとぐに[#「ひとぐに」に傍線]・ひとの国[#「ひとの国」に傍線]と言ふのがある。自分たちのと、寸分違はぬ生活条件を持つた人々の住んで居ると考へられる他国[#「他国」に傍線]・他郷[#「他郷」に傍線]を斥《サ》したのである。「ひと」を他人と言ふ義に使ふことは、用語例の分化である。此と幾分の似よりを持つ不定代名詞の一固りがある。「た(誰)」・「いつ(=いづ)」・「なに(何)」など言ふ語は、未経験な物事に冠せる疑ひである。ついでに、其否定を伴うた形を考へて見るがよい。「たれならなくに」・「いづこはあれど(=あらずあれど)」・「何ならぬ……」などになると、経験も経験、知り過ぎる程知つた場合になつて来る。言ひ換へれば、疑ひもない目前の事実、われ[#「われ」に白丸傍点]・これ[#「これ」に白丸傍点]・こゝ[#「こゝ」に白丸傍点]の事を斥すのである。たれ[#「たれ」に白丸傍点]・いつ[#「いつ」に白丸傍点]・なに[#「なに」に白丸傍点]が、其の否定文から引き出されて示す肯定法の古い用語例は、寧《むしろ》、超経験の空想を対象にして居る様にも見える。われ[#「われ」に白丸傍点]・これ[#「これ」に白丸傍点]・こゝ[#「こゝ」に白丸傍点]で類推を拡充してゆけるひとぐに[#「ひとぐに」に傍線]即、他国・他郷の対照として何《ナ》その国[#「何《ナ》その国」に傍線]・知らぬ国[#「知らぬ国」に傍線]或は、異国・異郷とも言ふべき土地を、昔の人々も考へて居た。われ/\が現に知つて居る姿《ナリ》の、日本中の何れの国も、万国地図に載つたどの島々も皆、異国・異郷ではないのである。唯《ただ》、まる/\の夢語りの国土は、勿論の事であるが、現実の国であつても、空想の緯《ヌキ》糸の織り交ぜてある場合には、異国・異郷の名で、喚んでさし支へがないのである。
われ/\の祖々が持つて居た二元様の世界観は、あまり飽気なく、吾々の代に霧散した。夢多く見た人々の魂をあくがらした国々の記録を作つて、見はてぬ夢の跡を逐ふのも、一つは末の世のわれ/\が、亡き祖々への心づくしである。
心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対する※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]が、芸術の動機の一つだとすれば、異国・異郷に焦るゝ心持ちと似すぎる程に似て居る。過ぎ難い世を、少しでも善くしようと言ふのは、宗教や道徳の為事《しごと》であつても、凡人の浄土は、今少し手近な処になければならなかつた。
われ/\の祖《オヤ》たちの、此の国に移り住んだ大昔は、其を聴きついだ語部《カタリベ》の物語の上でも、やはり大昔の出来事として語ら
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