れて居る。其本つ国については、先史考古学者や、比較言語学者や、古代史研究家が、若干の旁証を提供することがあるのに過ぎぬ。其子・其孫は、祖《オヤ》の渡らぬ先の国を、纔《わづ》かに聞き知つて居たであらう。併し、其さへ直ぐに忘られて、唯残るは、父祖の口から吹き込まれた、本つ国に関する恋慕の心である。その千年・二千年前の祖々を動して居た力は、今も尚、われ/\の心に生きて居ると信じる。
十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさと[#「ふるさと」に傍線]のある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾《かつ》ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。
すさのをのみこと[#「すさのをのみこと」に傍線]が、青山を枯山《カラヤマ》なす迄慕ひ歎き、いなひのみこと[#「いなひのみこと」に傍線]が、波の穂を踏んで渡られた「妣《ハヽ》が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと[#「いざなみのみこと」に傍線]・たまよりひめ[#「たまよりひめ」に傍線]の還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。
而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣《わけ》があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤《おもかげ》を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、愈《いよいよ》強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値《あ》ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。
二
民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめ[#「とよたまひめ」に傍線]の「ことゞわたし」にも、いはながひめ[#「いはながひめ」に傍線]等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。
又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。
ともかく、妣が国は、本つ国土《クニツチ》に関する民族一列の※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくに[#「ねのかたすくに」に傍線]なり、わたつみのみや[#「わたつみのみや」に傍線]なりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命[#「いなひの命」に傍線]と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命[#「みけぬの命」に傍線]の渡られた国の名は、常世《トコヨ》と言うた。
過ぎ来た方をふり返る妣《ハヽ》が国の考へに関して、別な意味の、常世《トコヨ》の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽《ひ》かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\未知之国《シラレヌクニ》が横《よこたは》つて居た。其空想の国を、祖《オヤ》たちの語では、常世《トコヨ》と言うて居た。過去《スギニ》し方の西の国からおむがしき東《ヒムガシ》の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。
祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世《トコヨ》並
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