て居た為に、束の間と思うた間に、此世では、家処《イヘドコロ》も、見知りごしの人もなくなる程の巌の蝕む時間が経《タ》つて居たのである。
常世では、時間は固より、空間を測る目安も違うて居た。生活条件を異にしたものと言へば、随分長い共同生活に、可なり観察の行き届いて居るはずの家畜どもの上にすら、年数の繰り方を別にして居る。此とて、猫・犬が言ひ出したことではない。人間が勝手に、さうときめて居るのである。まして、常世の国では、時・空の尺度は、とはうもなく寸の延びたのや、時としては、恐しくつまつたのを使うて居た。齢《ヨ》の長人《ナガビト》を、其処の住民と考へる外に、大きくも、小くも、此土の人間の脊丈と余程違うた人の住みかとも考へたらしい。前にも引き合ひに出たすくなひこなの神[#「すくなひこなの神」に傍線]なども、常世へ行つたと言ふが、実は、蛾《ヒムシ》の皮を全剥《ウツハ》ぎにして衣とし、蘿摩《カヾミ》の莢《サヤ》の船に乗る仲間の矮人《ヒキウド》の居る国に還住したことを斥《サ》すのであらう。
とこよ[#「とこよ」に傍線]なる語の用語例は、富みと長寿との空想から離れては、考へて居られない様である。即、其が、第一義かどうかは問題であるが、常住なる齢と言ふ民間語原説が、祖々《オヤ/\》の頭に浮んで来た時代に、長寿の国[#「長寿の国」に傍線]の聯想が絡みついたので、富みの国とのみ考へた時代が今一層古くはあるまいか。
飛鳥・藤原の万葉《マンネフ》びとの心に、まづ具体的になつたのは、仏道よりも陰陽五行説である。幻術者《マボロシ》の信仰である。常世と、長寿と結びついたのは、実は此頃である。記・紀・万葉に、老人・長寿・永久性など言ふ意義分化を見せて居るのも、やはり、其物語の固定が、此間にあつたことを示すのである。浦島[#(ノ)]子[#「浦島[#(ノ)]子」に傍線]も、雄略朝などのつがもない昔人でなく、実はやはり、初期万葉びとの空想が、此迄あつたわたつみの国[#「わたつみの国」に傍線]の物語に、はなやかな衣を着せたのであらう。「春の日の霞める時に、澄[#(ノ)]江[#(ノ)]岸に出で居て、釣り舟のとをらふ[#「とをらふ」に傍点]見れば」と言ふ、語部の口うつしの様な、のどかな韻律を持つたあの歌が纏り、民謡として行はれ始めたものと思ふ。燃ゆる火を袋に裹《ツヽ》む幻術者《マボロシ》どものしひ語り[#「しひ語り」に傍点]には、不老・不死の国土の夢語りが、必主な題目になつて居たであらう。
三
併しもう一代古い処では、とこよ[#「とこよ」に傍線]が常夜《トコヨ》で、常夜《トコヨ》経《ユ》く国、闇かき昏《クラ》す恐しい神の国と考へて居たらしい。常夜の国をさながら移した、と見える岩屋戸|隠《ゴモ》りの後、高天原のあり様でも、其俤は知られる。常世の長鳴き鳥の「とこよ」は、常夜の義だ、と先達多く、宣長説に手をあげて居る。唯、明くる期《ゴ》知らぬ長夜のあり様として居るが、而も一方、鈴[#(ノ)]屋翁は亦、雄略紀の「大漸」に「とこつくに」の訓を採用し、阪[#(ノ)]上[#(ノ)]郎女の常呼二跡《トコヨニト》の歌をあげて、均しく死の国[#「死の国」に傍線]と見て居るあたりから考へると、翁の判断も動揺して居たに違ひない。長鳴き鳥の常世は、異国の意であつたかも知れぬが、古くは、常暗の恐怖の国を、想像して居たと見ることは出来る。翁の説を詮じつめれば、夜見《ヨミ》或は、根《ネ》と言ふ名にこめられた、よもつ大神[#「よもつ大神」に傍線]のうしはく国は、祖々《オヤ/\》に常夜《トコヨ》と呼ばれて、こはがられて居たことがある、と言ひ換へてもさし支へはない様である。みけぬの命[#「みけぬの命」に傍線]の常世は、別にわたつみの宮[#「わたつみの宮」に傍線]とも思はれぬ。死の国の又の名と考へても、よい様である。
大倭の朝廷《ミカド》の語部は、征服の物語に富んで居る。いたましい負け戦の記憶などは、光輝ある後日《ゴニチ》譚に先立つものゝ外は、伝つて居ない。出雲・出石その他の語部も、あらた代の光りに逢うて、暗い、鬱陶しい陰を祓ひ捨て、裏ぎるものとては、物語の筋にさへ見えなくなつた。天語《アマガタリ》に習合せられる為には、つみ捨てられた国語《クニガタリ》の辞《コト》の葉《ハ》の腐葉《イサハ》が、可なりにあつたはずである。
されど、祖々の世々の跡には、異族に対する恐怖の色あひが、極めて少いわけである。えみし[#「えみし」に傍線]も、みしはせ[#「みしはせ」に傍線]も、遠い境で騒いで居るばかりであつた。時には、一人ぼつちで出かけて脅す神はあつても、大抵は、此方から出向かねば、姿も見せないのであつた。さはつて、神の祟りを見られたのは、葛城[#(ノ)]一言主《ヒトコトヌシ》における泊瀬天皇の歌である。手児
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