の事実現象を述べて、それを契機として言語の類似、又は同一思想を捉へて、本題目に入る手段であるが、質朴な万葉時代の修辞法には屡用ゐられて居る。しかも、多くは本題よりも遥かに長く、形式の大部分を占めて居る事は注意せねばならぬ。
此法においては、最も形体的内容の聯想が、実質的内容と傾向を同じくする必要がある。最も形体的内容が明らかにあらはれて居るのは、此法であるが、それだけにまた、実質的内容を融合することも困難である。極めて単純なる感情をばあらはす手段であるから、形体的内容を述ぶることに低徊して、なるべく、事実よりも印象を深く与へて、実質的内容の量を深く感ぜしむるといふのが眼目である。此点は象徴派の参考とすべきものであらう。
(三)此表現法は、美的仮象を分解して、空想的と感覚的との両写象にして仕舞つては、完全な内容を形くることの出来ぬ者、即主観客観の融合した者と、主観客観を超越した者とを併せていふので、名称に稍不穏当な処あるが、姑《シバラ》く絶対的といふ名称の下に容《イ》るゝことゝした。
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時鳥まつにしもさく藤の花人の心のなびくなりけり(加納諸平、柿園詠草)
身をうみのおもひなぎさは今宵かなうらに立つなみうち忘れつゝ(大和物語)
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諸平のは、時鳥を今か/\とまつ心を折しもさいて居る藤の上にうつしてよんだもので、要はたゞ、人の心が時鳥になびいて居るといふ実質的内容に帰するが、それが形体的内容と融合してあらはれた美的仮象は、決してそんな単純なものではない。感覚的仮象(即形体的内容)は、松になびいて咲いて居る藤の花、空想的仮象は、なく初声をまつ心が時鳥になびくといふこと、前後にまつとなびくといふ語があつて、此が契機となつて、両仮象を結びつけて居るが、其集合概念としてあらはれた美的仮象は、やゝ趣を異にして居る。松になびいて居る藤の花を単に形体的内容とし、人の心が時鳥になびくといふのを容易《タヤス》く、実質的内容として分つことが出来ないところに、此表現法の意味はある。
次の歌の類は、沢山ある。此は前の者よりは主観が明らかにあらはれて居る。うみ[#「うみ」に傍線]は単に客《キヤク》として言語をあやなす為に採られたばかりであるが、此種の者もかりに此部類にこめておかう。
此外、興《キヨウ》の体《タイ》に属するものゝ一部、及、音覚を主とする者は
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