、此うちに入れねばならぬ。
定家の所謂幽玄体と称するのは、非常に音覚を重じた者で、主観客観を出て絶対境に入らむとして居るものが多い。であるから、従来の学者の如き、内容に形体的、実質的の両面のあることの考へもなく、且、勿論二方面の区別を立てた後に、之をまた融合せしめて考へることの出来なかつた頭脳からは、難解とのみ却けられたのも道理《モツトモ》であるが、今日ではもうその様な解釈法ではいけない。音覚については、すがた[#「すがた」に傍点]のことを説く場合に、更に、詳しく論ずるつもりである。
右、略《ホ》ぼ三つの表現法によつて、形体的内容があらはされるといふことを述べた。次には尠し立ち場をかへて部分と全体との考への上から、形体的内容と実質的内容との関係を説きたい。
第一次思想の限界を加へられてあらはれたものが実質的内容であることは、予《カネ》ていうておいた。であるから、まづ与へられた形式の全体をうづむる内容といふことが出来る。
次に、実質的内容に並行して、同一の形式の上に統一せられて居る形体的内容がある。
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君恋ふるなみだのうらにみちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる(新撰万葉)
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君を恋ふるあまりに、自分は常に涙におぼれて居る。かくては、我身をも終につくすべきかといふ実質的内容に並んで、涙を湛へた中に澪標《ミヲツクシ》の如く立つて居るといふ形体的内容が、詩全体に亘つて統一融合せられて居る。
右は、内容が並行して居る場合を述べたのであるが、茲に一つ注意しておくべきは、形体的内容が、一部分の連鎖を持つて居るばかりであつて、それによつて起された感情が詩全体に遍満して居る場合がある。これをもこの場合に併せて挙げておく。
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若鮎のひれふる姿みてしよりこの川上の家ぞ恋しき(加納諸平、柿園詠草)
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この歌は、万葉の「玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき」といふ歌が根柢になつて居ることを、この川上の家といふ言葉によつて悟らしむる。若鮎は、領布をおこさむ為の語《コトバ》、新しく造られた枕詞である。ところが、唯単に領布をおこすばかりで満足せず、その感じを終までも続けて居る。この作者は、仮に、玉島の処女に返歌せられた男の心持になつて、詠んだものである。実質的内容においては、玉島川の辺《
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