る。形体的内容についていふと、もと/\この表現は作者本来の目的でないので、元来は主観的でないのであるが、そのあらはす径路に於て主観的な表現法をもとることがある。
繰りかへしていふと、思想は作者の主観に根柢をおいて、之を客観的に観察したもので、これが更に客観的表現法によつて、ある形式を採つて読者の客観界に入つて、はじめて内容といふ名を得る。これがまた個々の読者の主観界に空想的仮象として顕はれる。
形体的内容は、読者の観照によつて、写象としてあらはれるが、今一歩其知性的分子を脱して感性に入ると、感覚的仮象となるのであるが、此感覚的仮象が観念界において、実質的内容から来た所の空想的仮象と結び附く処に、種々の関係を生ずる。勿論此場合、右の両者の統一融合せられるといふのが理想であるが、常に之を望むことは出来ない。しかし此理想地に至らなければ、観念的感情は起らない。感覚的仮象によつて感覚的感情が惹起せられたばかりでは、文学の真の目的が達せられたとはいはれぬ。しかも、尚此上に大なる要件がある。其は、観念の聯合といふことである。これは、専ら読者側にあることではあるが、作者は予め適当な観念の聯合をなさしむる為、恰好な形式内容を読者にあたへねばならぬことはいふまでもない。
形体的内容は、読者側において生ずるものなることは勿論であるが、作者の予期はおなじく度外視してならぬ。
読者の観照によつてあらはれる写象は、三つの異なる立ち場を有《も》つて居る。
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一、主観的表現
二、客観的表現
三、絶対的表現
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此三つの場合について、簡単な説明を試みよう。
(一)主観的表現といふのは、写象をとほしてある主観が認めらるゝもの。
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君[#「君」に白丸傍点]しのぶ[#「しのぶ」に傍点]草[#「草」に白丸傍点]にやつるるふる里は松虫の音ぞかなしかりける(古今)
わが庵は都のたつみしかぞ住む世を[#「世を」に白丸傍点]う[#「う」に傍点]ぢ山[#「ぢ山」に白丸傍点]と人はいふなり(同)
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前の歌は、忍草のしのぶといふ語を契機として、君しのぶといふ思想が結びつけられて居る。単に景《ケイ》を叙するに止めずして、作者の予期した主観的表現が認められる。
後のも、やはり、世をうぢ山のう[#「う」に白丸傍点]といふ語がはずみ[#「
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