けられねばならぬ。象徴詩も彼等を満足せしむることは覚束ない。
形体的内容と、実質的内容との結合する点において、屡矛盾がある。是れ欠陥であると共に、亦これを利用して、好結果を収めることがある。落語とか笑府とかは、畢竟思想より直通して居る実質的内容と、言語形式によつて生ずる所の形体的内容とを並行せしめて、ある滑稽な内容を形《カタチヅ》くるのを目的とするのである。
川柳に於ては、最も著しくこの傾向を認めることが出来る。たとへば、
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居候醋のこんにやくをいつも喰ひ
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といふ句において、単に実質的内容なる食客《シヨツカク》がいつもすのこんにやくの[#「すのこんにやくの」に傍点]と小言をいはるゝとだけでは、何の興味もない。形体的内容に於て、醋あへの[#「醋あへの」に傍点]蒟蒻《コンニヤク》を常食として居るといふ意味があらはれて、実質的内容と並行して、しかも終には読者の観念界に実質的内容にある色彩を帯びた第二次思想となつてあらはれる点に、多大の興味があるのである。語をかへていふと、形体的内容と実質的内容とによつて形《カタチヅ》くられたる集合概念を抽き出すといふ所に興味は存するのである。
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茲に集合概念というたのは、厳格な意味に於て用ゐたのではなく、唯二つの内容が集合して一種特別な意味をなす点を捉へていうたのみで、勿論この集合概念の上には意味ある予定ある思想が働いて居るので、無意味の中から、意味を取り出すといふのではない。
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実質的内容は一つではあるが、形体的内容は、二つ以上に上《ノボ》ることがある。
実質的内容は、根本を作者の主観において居るが、形体的内容は、読者の客観を基礎として居る。
一体主観といふことは、背景的事実、認識すべからざる現象で、実際にはあらはれて来ない。すべて認識の上のことは、元来、皆主観から出るのであるが、これをいひあらはす場合には必ず客観的になつて来る。唯便宜上その程度によつて、主観とか、客観とか分つのであるが、もと/\皆主観に発した所の客観なのである。実質的内容は、作者の主観から発して客観的段階を経て、読者の客観を俟つて、その主観界に復活するものであるが、これにも度合があつて、読者に主観的分子を多く感ぜしむるものが主観詩で、客観的分子を多く感ぜしむるものが客観詩であ
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