ない。が、昔からあまりにこの思想を重んじすぎて居る。しかも、その根柢においては、詩歌の思想と内容との意義の混同が、大なる原因をなして居るに相違ない。自然主義者の所謂「真《シン》」の意義も、この点の分別が大分《ダイブ》欠けて居るやうに見える。つまり、汲々として、皆、形式、内容の交渉分離を知らずして、唯、思想を偏重した弊を脱することが出来ないのである。
この前提に立つて、自分は新に形体的内容、実質的内容といふ新名辞の説明を試みたい。
実質的内容とは、作者の予定より来る内容で、第一次思想から来るものであるから、これを直接内容とも名づけることが出来よう。次に、形体的内容とは、内容の予定なくして聯ねられたる言語が、偶然にある内容を有する形式となつた場合のその内容をいふので、畢竟実質的内容とは、思想より一直線に来る第二次思想、形体的内容とは、思想を発表する径路において、言語形式の為に、ある他の内容を形つくるもの、いはゞ副産物とも称すべきものである。
この副産物の出来る度合にも色々ある。或はこの副産物と主産物と全く融合して居ることがある。(肯《アヘ》て一致とはいはない。殆ど一致することはあるが、)それより、漸く副産物の量を減じて、部分的に副産物と主産物との交渉あるもの、或は殆ど副産物の加はつて居ないと見ゆるものもある。(言語形式を伴ふ間は、どうしてもこの副産物の含まるゝのは拒むことは出来ない。)
唯副産物の量を少くして、殆ど皆無と見ゆるに至るまでにするのが従来の作家の理想ではあるが、又一方に、この副産物を巧《タクミ》に利用するといふことも、詩としてはあながちに却《シリゾ》くべきことではないと思ふ。このことは後に言語情調に就て述べる時に、今一度説くつもりで居る。どうしても副産物が伴はるゝものとすれば、主産物との融合に努めて見ることも必要であり、又、その融合の程度によつて価値の増減も自《オノヅ》から生ずる訳である。然るに世の盲目評家は、その過程に於て、形式といふものを経《フ》ること、又、それが避くべからざるものなることを忘れて、この形式によつて、必然的に生ずる副産物の価値を認めないものすらあるが、実にわからないも甚しいといはねばならぬ。彼等は動《ヤヽ》もすれば技巧を排し、言語の彫琢を否定する。これ等の評家は、到底詩歌を解する資格がない。これ等の評家によつては、形式あるものは、すべて斥
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