たのであらう。即ちう[#「う」に傍線]がそはると動詞となり、い[#「い」に傍線]がつくと名詞となる。あ[#「あ」に傍線]の母韻がつくと主に副詞または形容詞となる。
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┌ます+ら+雄 勝
ます 渾沌┤天[#(ノ)]益人 増
└まそ+け・し(まさ+き・く) 正
益荒雄と記紀万葉にかいたのは借字で字によつて、たけ/″\しい意があるとするから小田のますら雄[#「小田のますら雄」に傍線]の説明が出来ぬので、ます+ら+雄であつて達者な男といふ意にとれば不思議はない。まそ+け・しといふ語が達者なといふ意を暗示して居るではないか(兵部令にちからびとの事を健児《コンデイ》と宛てたのにも此辺の消息がうかゞはれ相である)。天益人の如きも黄泉津平坂のことゞわたしの時に、
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汝国之人草一日絞殺千頭[#(云々)]愛我那邇妹命汝為然者吾一日立千五百産屋是以一日必千人死一日必千五百人生也
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とあるのにかまけて、大祓の「国中[#(尓)]成出[#(武)]天之益人等[#(我云々)]」とある語をみな死ぬるよりも生るゝ数のます[#「ます」に傍線]意だとといて居るがどうもおちつかぬ。神々の御ちかひによつて、まそけく日々にいそしむおほみたからの意と解する方が適切であらう。
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以上は一つの仮説にすぎぬ。其語の渾沌時代から生れて来る順序有様等については、或は表に示した所に不完全な点あやまつた点がないでもなからうとおもふ。
今一つこの連体言について考ふべき事は所謂延言の一種々々を語尾に伴うたものについてゞある。いはく[#「いはく」に傍線]、申さく[#「申さく」に傍線]は将然言からく[#「く」に傍線]をうけたものとも見られるけれども、これは恐らく音転であらう。く[#「く」に傍線]延言が連体法から出る証拠は万葉の※[#歌記号、1−3−28]わが背子を何地ゆかめとそきたけのそかひにねしく今しくやしも、勢語の※[#歌記号、1−3−28]桜花ちりかひくもれおい[#「い」に「(ゆ)」の注記]らくのこむといふなる道まがふがに 等の歌をみてもわかる。これらは、ねしこと、おいといふもの(おゆること)といふ事であるから全くの連体法で、これを(ねし、おゆら)体言ともみられぬでもないが、よほどくるしいと思ふ。
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つけていふが所謂く延言は、う[#「う」に傍線]の韻のある所から動詞として用ゐられることもあるやうである。例へばいそはく[#「いそはく」に傍線]はいそふ[#「いそふ」に傍線]の所謂延言である。それが四段活用にうつつた如き。
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■已然段について
已然段についてはいまだ一つの体言らしいものも見いださぬ。全体已然言と命令言とは形容詞に於て一見してわかる如く、用言の諸活用のうちで何だか特別なものゝ様である。
将然連用終止〔連体〕〔已然〕
もし四段一元が事実ならば終止と連体とは一つになる。そして上下二段活上下一段活を見ると、将然と連用とにも四段の終止と連体に於けるが如き関係が見られる。動詞活用古形については考のまとまる日をまつて、今はたゞ動詞形容詞活用の各段に於ける体言の有無について卑見をのべて、更に接尾語がこれらの体言について用言をつくることをいうたまでゞある。
今話をはじめにかへして、
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いとは・し いとほ・し よろこば・し よろこぼ・し
ゆら・ぐ ゆる・ぐ およは・す およほ・す
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等について考へてみると音韻の転とのみもおもはれぬ。どうもある点までは音転といふことも考へて見ねばならぬが、将然と終止とがおの/\ある接尾語をよんで他の用言を再びつくつたものと考へる方が前々からのべた通りでよささうである。
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こひ・し さび・し わび・し
ゆき・す 死に・す かれ・す
よぎ・る ゆり・る ゆれ・る
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の様なのは連用法体言から出たもので、前項の将然言や終止言から出たものよりは体言的の意味は深い様である。もしも将然言と終止言とがおの/\ある接尾語をよんで用言となつたのではなくしてどちらか一つは音転によりてなつたものだとすれば、自分は人の将然言の方を元とするのに対して、むしろ終止言を根本とすると主張せうとおもふ。もしも将然言をもとゝすれば、ねしく[#「ねしく」に傍線]とかおいらく[#「おいらく」に傍線]などのく[#「く」に傍線]延言はどう説明するのであらう。ねしむ[#「ねしむ」に傍線]、ねし[#「ねし」に傍線](将然言)、おゆらむ[#「おゆらむ」に傍線]、おゆり[#「おゆり」に傍線]などゝいふ珍妙な活用があることをも肯定せねばならぬ。自分は前に終止と連体との親族的関係のある事についていうておいた。それによつてみても、むしろ終止といふ方が将然といふよりもまさつてをりはすまいか。この場合に於て終止言に連体の意味があるというても差支はないけれども、決して形式の上に混同してはならぬ。形式の上ではむしろ動詞の連体言が体言的になつて接尾語をよぶといふよりも、連体終止の二段をかねた終止言が接尾語をよぶのである。即ち活用が一元に帰するとすれば、今の四段活用の様に終止連体うちこめて終止とする様な活用でなければならぬのである。さなくては、今の上下二段諸変格の連体が接尾語をうけて用言とはならずに却つて終止からうけるなどは奇妙な事といはねばならん。
かういふわけで、ある点までは連用もまた将然言にこめて考へることが出来る。
さうすれば問題は大体に於て将然と終止との上にのこるわけである。
くりかへしていふが、自分は音転といふことをば認める。けれども此れを極端にひろげて考へることは出来ない。自分とてもどれもこれも終止と将然とからおの/\別に出発したものとはいはぬけれど、これを悉く一元に帰せうとする意見には賛同の意をあらはすことはできぬ。かうして、
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つくろふ は つくるの終止からふ[#「ふ」に傍線]をうけたもの
かたらふ は かたるの将然からふ[#「ふ」に傍線]をよんだもの
かこふ は かくの終止にふ[#「ふ」に傍線]がついたもの
たゝかふ は たゝくの将然がふ[#「ふ」に傍線]をうけたもの
[#ここで字下げ終わり]
であると説かうとおもふ。(かたらふをかたりあふ、たゝかふをたゝきあふであるなどゝいふのはどうかとおもふ。一体反切をいろ/\の方面に応用した事は明かな事実で、記紀万葉あたりにもこの反切の応用が見えてゐる。しかるにやゝもすれば占《ウラ》ふといふ処に占合、占相、たをやめに手弱女などゝあて字を用ゐる。うらふ、かたらふ、たゝかふのふ[#「ふ」に傍線]にはもとよりあふ[#「あふ」に傍線]の意はないではなからう。けれどもこれらのふ[#「ふ」に傍線]を悉くある接尾語とは見ずにあふ[#「あふ」に傍線]のあ[#「あ」に傍線]が語根のうちに融合してしまうたと説くのは、記紀あたりのあて字からまよはされたのではあるまいか。たをやめを手弱女の意であると説くのは必ずそのあやまりを古事記あたりに発してゐるのであらう。〔古訓古事記には占合をうらあへといふ様に下二段にはたらかしてをるけれども、意はやはりはらへ〈祓〉のごとくもとは他動から出て自動[#「自動」に傍点]にうつつてゐる語のやうにあつかうたのはおもしろくない〕)
金沢先生は延言考において、韓語の動詞形容詞に二つの名詞法(※[#ハングル文字、「フ+ト」、463−1]、※[#ハングル文字、「ロ」に似た文字、463−1])がある事とわが形容詞にばかり ki mi の二つの名詞法がのこつてをる事とから推して、動詞にもm形の名詞法が昔はあつたので、ひろき[#「ひろき」に傍線]、しろき[#「しろき」に傍線]がひろく[#「ひろく」に傍線]、しらぐ[#「しらぐ」に傍線]となるやうに、ひろむ[#「ひろむ」に傍線]、しろむ[#「しろむ」に傍線]はひろみ[#「ひろみ」に傍線]、しろみ[#「しろみ」に傍線]の名詞法から動詞にうつつたのでこのm形が変じては行延言[#「は行延言」に傍線]と称するものが出来たのであらう、というてゐられる。
けれども考へてみれば、延言と称すべきものは決しては行とか行とばかりにあるわけではない。ki mi のい[#「い」に傍線]の韻をもつた名詞法から動詞となるといふ事から、先生の動詞の語根をい[#「い」に傍線]の音に関係ふかきものを以て定められてゐる立場から見れば当然ではある。けれども、よそ・る、ふる・す、まさ・る、うこも・つなどはどう説明すればいゝのであるか。
よす[#「よす」に傍線]がかたらふ[#「かたらふ」に傍線]とかみまく[#「みまく」に傍線]とかにふ[#「ふ」に傍線]、く[#「く」に傍線]がつくと同じ様にる[#「る」に傍線]をうけてよそる[#「よそる」に傍線]となる。
ます[#「ます」に傍線]の将然からる[#「る」に傍線]に接してまさる[#「まさる」に傍線]となることはみまく[#「みまく」に傍線]とかかたろふ[#「かたろふ」に傍線]とかと少しも差異はない。同様な事がうごもつ[#「うごもつ」に傍線]、うごもち[#「うごもち」に傍線]の上にもいはれる。うごむ[#「うごむ」に傍線]はむくむ[#「むくむ」に傍線]とおなじことばで、之にる[#「る」に傍線]、つ[#「つ」に傍線]がついて出来たというて何の差支をも見ない。
ふる・す[#「ふる・す」に傍線]はふる[#「ふる」に傍線]といふ動詞にす[#「す」に傍線]をつけたもの、たる・む[#「たる・む」に傍線]はたる[#「たる」に傍線]にむ[#「む」に傍線]がそはつたもの、ゆる・ぶ[#「ゆる・ぶ」に傍線]はゆる[#「ゆる」に傍線]にぶ[#「ぶ」に傍線]がついたもの。
かういふ風にのべて来ると、延言と称するものは決してく[#「く」に傍線]、ふ[#「ふ」に傍線]にかぎらぬことが明かである。
更に注意すべきは二重にこの作用をするものがあることである。即ち、
[#ここから2字下げ]
よそほふ[#「よそほふ」に傍線]は
よそ・ほ・ふ<よそ・ふ<よす
ひこづろふ[#「ひこづろふ」に傍線]は
ひこ・づろ・ふ<ひこ・づる<ひく
[#ここで字下げ終わり]
の類である。
更におもへばゆか・る[#「ゆか・る」に傍線]でもゆか・す[#「ゆか・す」に傍線]でも、うか・る[#「うか・る」に傍線]でもうか・す[#「うか・す」に傍線]でもやはり所謂延言だと称する事が出来る筈である。
延言と称する名称の不可なることは用言のある活段を体言と考へて之に接尾語をつけて用言としたので、決して語尾を延べてつくつたものでないことを以てみても明かである。
終につけそへておくが、これまで延言と称せられたる、ふ[#「ふ」に傍線]、その他く[#「く」に傍線](みらく、こふらくのく[#「く」に傍線]ではない)、す、つ、ぬ、は、ゆ、る、う(ぐ、ず、づ、ぶをも加へて)及び二綴或は二綴以上の接尾語について、その意を考へてみれば面白い結果が得られるとおもふ。勿論る[#「る」に傍線]には有の意味があらう、す[#「す」に傍線]には為の意味があらう、う[#「う」に傍線]には得の意があらう、む[#「む」に傍線]には見の意味があらう、けれども、る、す、む、の説明もなほそれだけでは不完全である。その他く、つ、ぬ、ふ、ゆをはじめ、多綴音の接尾語についても考へてみる必要がまだ/\ある事とおもふ。
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く
[#ここから4字下げ]
つな・ぐ(綱ぐか列ぐか)
かゞ・や・く、おどろ・く、うご(<むく)・く、うな・く、さや・ぐ、そよ・ぐ、そゝ・く、せゝら・ぐ、よろ・ける(>く)、ゑら・ぐ(ゑら/\)
こほろぎはこほろ(擬声)ぐの名詞法か
はらゝ・く、とゞろ・く
[#ここから3字下げ]
す
[#ここから4字下げ]
(ご)
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すぐ・す、たゞ
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