用言の発展
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)不知《イサ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)稚湯|坐《ヱ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)志都宮[#(尓)]忌
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
われ/\は常につくろふ[#「つくろふ」に傍線]とかたゝかふ[#「たゝかふ」に傍線]とかいふ所謂延言の一種を使うて居つて何の疑をもおこさぬ。今日の発音ではつくろふ[#「つくろふ」に傍線]もたゝかふ[#「たゝかふ」に傍線]も、みな終止形はお[#「お」に傍線]の韻をもつたら[#「ら」に傍線]行長音なりか[#「か」に傍線]行長音なりになつてしまふのであるから疑のおこらぬのも尤である。けれども仮字づかひについて考を及してみるとどうもをかしい。なぜつくろふ[#「つくろふ」に傍線]の ro は rofu でかたらふ[#「かたらふ」に傍線]の ro は rafu なのか、どういふわけでまたたゝかふ[#「たゝかふ」に傍線]の ko は kafu でかこふ[#「かこふ」に傍線]の ko は kofu でなければならぬのか、妙な事だといふと常識はたゞちにかう応へる。
その疑は今日の発音を土台として考へるから起るので、昔はつくろふ[#「つくろふ」に傍線]を tukuro−fu、かたらふ[#「かたらふ」に傍線]を katara−fu と発音したからである、またたゝかふ[#「たゝかふ」に傍線]は tataka−fu、かこふ[#「かこふ」に傍線]は kako−fu と発音通りにうつしたのにすぎないとこたへる。けれども疑はその点ではない。形容詞や動詞をとつて考へてみると、
[#ここから2字下げ]
くや・し うらやま・し あぶなか・しい あら・し やさ・し たゝは・し
べか・し めか・し
うごか・す
さか・る こが・る まか・る
[#ここで字下げ終わり]
などのごとく動詞形容詞助動詞すなはち用言の将然段又はあ[#「あ」に傍線]の韻を以て終つて居る語から他の語につゞいてまた用言になつたらしいものがあるかとおもへば、一方には用言の終止段から他の語につゞいて同じく再びある用言を形づくつたらしく見えるものがある。
[#ここから2字下げ]
いつく・し いきどほろ・し
おそろ・し さも・しい
うごも・つ
おこ(<く)・す つも(<む)・る
こも・る なゆ・ぐ
[#ここで字下げ終わり]
などが即ちそれである。然るに、をかしい事が此処にある。それは、意味も形式も殆ど同じ語で、将然言から出たのも終止言から出たのも二つともにあることである。
[#ここから2字下げ]
よそはし=よそほし
このまし=このもし
くるはし=くるほし
よろこはし=よろこほし
きか・す=きこ・す おもは・す(敬)=おもほ・す おは・す=おほ・す
とゞろか・す=とゞろこ・す(古事記、岩戸びらきの条)
[#ここで字下げ終わり]
人はこれらの終止段から出たらしい語をば悉くあ[#「あ」に傍線]の韻がお[#「お」に傍線](即ちう[#「う」に傍線])にうつゝた音韻の転訛であるといふけれども、それでは何やら安心のならぬ所があるやうにおもふ。その不安心の点を出発地として、下のやうな推論がなりたつた。
自分のよんだ限りの少しばかりの諸先達の著書のうちには、これこそとおもはれる考がなかつた様に記憶する。大抵やはり将然段から出たものとして、よそほし[#「よそほし」に傍線]とかおもほす[#「おもほす」に傍線]とかは音韻の転訛であるとやうにとかれてゐる。こゝに卑見をのべるに先だつて、まづある提言をなすべき必要を認める。それは「用言の語根は体言的の意味あひをもつてゐる」といふことである。全体体言といふ名称は形式の上にあるのではあるけれど、こゝには名詞というてしまうてはしつくりとをさまらぬから、かりに意味の上にこの名称を借用した。
語根が体言的の意味あひをもつてゐるといふと、こゝに自然と名詞語根説と語根名詞説とが対立してくる。即ち歌[#「歌」に傍線]とうたふ[#「うたふ」に傍線]とは何れが先に存してをつたかといふ争がもちあがる。自分は名詞語根説を把るから、勿論歌[#「歌」に傍線]がもとで、うたふ[#「うたふ」に傍線]は後になつたのであると答へる。けれども反対者の説く所にも理由のあることは認めてをる。然しそれが誤解であるといふことを少しばかり論じてみようとおもふ。
[#ここから2字下げ]
かなし・む そゝ・る かこ・む いこ・ふ しづ・る
[#ここで字下げ終わり]
などの語によつてみても名詞語根説が語根名詞説よりもまさつてゐる事は明かである。
[#ここから1字下げ]
かなしむ[#「かなしむ」に傍線]は形容詞から来たもので誰もかなしむ[#「かなしむ」に傍線]からかなし[#「かなし」に傍線]といふ語が出来たとはいふまい(このかなしむ[#「かなしむ」に傍線]のかなし[#「かなし」に傍線]は体言である事は後にいふ)。そゝる[#「そゝる」に傍線]のそゝ[#「そゝ」に傍線]、よゝむ[#「よゝむ」に傍線]のよゝ[#「よゝ」に傍線]などは擬声といふのか、擬状といふのか、ともかくも八品詞以外のやゝ感嘆詞に近い語である。これを体言的(意味上の)に借用して、む[#「む」に傍線]とかる[#「る」に傍線]とかいふ用言にうつす接尾語をつけたのであつてみれば、誰しもそゝ[#「そゝ」に傍線]、よゝ[#「よゝ」に傍線]はそゝる[#「そゝる」に傍線]、よゝむ[#「よゝむ」に傍線]の語根から出たのだとは主張すまいとおもふ。ましてそゝのかす[#「そゝのかす」に傍線]とか(そゝめくとか、そゝや秋風などのそゝ[#「そゝ」に傍線]は、これとは少し系統がちがふ様である)よゝめく[#「よゝめく」に傍線]、よゝなく[#「よゝなく」に傍線]などゝいふ語があつてみれば、そんな議論はおくびにも出る筈のものぢやない。かこむ[#「かこむ」に傍線]、しづる[#「しづる」に傍線]などは次に示す簡単な表をもつても、語根名詞説を破るだけの材料をもつてゐる。
┌ ――(釣錘)
│┌――枝
││――輪 ――鞍
│┤――ごゝろ
││――おり
しづ┤└――みや(出雲国造神賀詞に志都宮[#(尓)]忌静[#(米)]仕奉[#(而)])
│┌――く
│┤――む
│└――る
│┌――か
│┤
└└――や(やか)
┌┌――む(こむ)
││――す
│┤
かく┤│――[#「―」に「(こ)」の注記]ふ
│└――る
└ ――[#「―」に「(こ)」の注記]やか
しづむ[#「しづむ」に傍線]といふ動詞から、魚釣りに用ゐるしづ[#「しづ」に傍線]が出たものとすれば、しづく[#「しづく」に傍線]、しづる[#「しづる」に傍線]のしづ[#「しづ」に傍線]はどう説明するか。共通の語根しづ[#「しづ」に傍線]は非常に煩瑣な説明をまたねば、魚つりのしづ[#「しづ」に傍線]の説明を与へることが出来なくなる。下枝、後輪、下鞍、しづごゝろ、倭文みな同様である。しづごゝろ[#「しづごゝろ」に傍線]は、万葉では下心の字をかいてをる。これを木村博士はしたごゝろ[#「したごゝろ」に傍線]とよまねばならぬというてゐられるが、しづごゝろ[#「しづごゝろ」に傍線]とよむ方がよからうとおもふ。それは三代集あたりのしづごゝろ[#「しづごゝろ」に傍線]は通常静心と訳するけれど、これは少しどうかとおもふ。(勿論三代集以後には静心の意に用ゐてゐるけれど)友則の※[#歌記号、1−3−28]しづごゝろなく花のちるらん は従来など[#「など」に白ゴマ傍点]静心なく花のちるやらんと解してゐる。然しこれはよろしくないと助動詞らむ[#「らむ」に傍線]の性質の上から論じて、三矢先生が花の散るは静心なくてならんと説かれたのは面白い考ではあるけれども、先生はなど[#「など」に白ゴマ傍点]静心なくては理屈におちておもしろくないといはれたが、先生の解釈の方がなほ/\理屈におちて趣がない。少しわき路にはいるけれども、この時代の歌にはかういふらむ[#「らむ」に傍線](即ち無意味に現在をやはらげて想像の形をとつた)の例がたくさんある。※[#歌記号、1−3−28]……春がすみ立ちかくすらん山の桜を※[#歌記号、1−3−28]秋萩にうらびれをればあしびきの山下どよみ鹿のなくらむ などは、どうしても現在を柔げたものとしか見られない。めり[#「めり」に傍線]とかべし[#「べし」に傍線]とかがたゞの推量ではなく、推量の形をもつて現在をやはらげる事があるのと同じであらうといふ考で、先生に静心なく花の散ることぢやなあと解したらどうでございませうとお尋ねをしたことがある。が今思うてみれば、心もとなく花が散ることぢやなあと解するのが適当かとおもふ。貫之の※[#歌記号、1−3−28]ことならばさかずやはあらぬ桜花みるわれさへにしづこゝろなし といふ歌を、遠鏡に、見テヰルコチマデガ気ガソハ/\スルハイと解してあるけれど、さうではなくて、「ことならば」がわが身へもひゞいてゐて、桜が散る。それにつけてもわが身が心もとなくおもはれる。桜は気をうき立たすものぢやに却つてわれにもともに心もとない思をさせる。こんな位ならば桜が咲かない方がましぢやに、とやうに解するがよからう。桐壺に※[#歌記号、1−3−28]あらき風ふせぎしかげのかれしより小萩が上ぞしづこゝろなき とあるのは、そは/\するのではない、更衣の母が源氏の上を心もとなくおもふのである。しづこゝろ[#「しづこゝろ」に傍線]をばしづえ[#「しづえ」に傍線]、しづくら[#「しづくら」に傍線]のやうにほんたうに[#「ほんたうに」に傍点]した[#「した」に傍線]としてはよろしくない。それかというてしづか[#「しづか」に傍線]では勿論わるい。しづく[#「しづく」に傍線]、しづる[#「しづる」に傍線]、しづむ[#「しづむ」に傍線]などに共通した下にしづむ様な心もちがあるのである。しづか[#「しづか」に傍線]、しづや[#「しづや」に傍線](やか)は、もとやはりしづむ[#「しづむ」に傍線]やうな心もちのしづ[#「しづ」に傍線]にか[#「か」に傍線]またはや[#「や」に傍線](やか)がついたものであらう。催馬楽に、しづや男といふ語が見える。これは物に動ぜぬ沈着な男であるのだといふ。このしづか[#「しづか」に傍線]とかしづや[#「しづや」に傍線](やか)とかいふ語が多く用ゐられたから、そこではじめてしづ[#「しづ」に傍線]といふ語に静といふ意が生じたのであらう。
つけていふが、賤男、賤の家などのしづ[#「しづ」に傍線]もこの下といふ意味から生れたものではなからうか。かく[#「かく」に傍点]は今はないけれど、古い動詞の一つにちがひない。かき(垣)といふ語が今もなほ連用名詞法の俤を存してゐる。祝詞によくでる「あめのかきたつかぎり」のかき[#「かき」に傍線]には壁の字があてゝあるが、このかき[#「かき」に傍線]は垣といふ名詞ではなくてかきだつ[#「かきだつ」に傍線]とでも今ならばよむべき連用副詞法なのであらう。蜘蛛のいがきとか鳥巣をかくとかいふのは、懸けるのではなくてかまへる[#「かまへる」に傍点]とでも訳すべきで外と境をたてる意がある。
かくす[#「かくす」に傍線]、かくむ[#「かくむ」に傍線]、かこふ[#「かこふ」に傍線]、かくる[#「かくる」に傍線]は、このかく[#「かく」に傍線]といふ体言的の語があつて後に出来た語である事はいなまれぬ。
かづら・ぐ[#「かづら・ぐ」に傍線]といふ語について
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