は体言的の意味が全くない様にもおもはれるが、よく考へてみればそこに体言的の意味がどうもあるらしい。
助動詞のけり[#「けり」に傍線]、けん[#「けん」に傍線]がけ[#「け」に傍線]を共有してり[#「り」に傍線]とむ[#「む」に傍線]とによつて時のちがひをあらはすが如き、け[#「け」に傍線]に過去の意味があるのでり[#「り」に傍線]はさし示す語であるから、けり[#「けり」に傍線]はたしかなる過去の時をあらはし、む[#「む」に傍線]は想像であるから過去のある時を現在から想像する。このり[#「り」に傍線]とむ[#「む」に傍線]とがけ[#「け」に傍線]に連続する具合、らむ[#「らむ」に傍線]とらし[#「らし」に傍線]、めり[#「めり」に傍線]とべし[#「べし」に傍線]と、なり[#「なり」に傍線]となむ[#「なむ」に傍線]との如き、皆ひと綴/\について意味がある。けれどもどういふわけでそれがまたむすびついたのか、これをその間に観念がはたらいてした仕事であるとすれば同様のことが、ゆか・む、ゆか・じ、ゆか・ず、ゆか・ましなどの上にも応用が出来る筈である。ゆかなん[#「ゆかなん」に傍線]の如きは、ゆくといふ事(即ちゆか)を希求する意味のなん[#「なん」に傍線]がついたのであるといふことはあながち無理ではなからう。
さわ・ぐ、なや・む、たゝ・む、あ・ぐ、かゝ・ぐ、さか・る、うま・る、つが・ふ、ゆか・し、いとは・しなどもまた同様の事がその語根についていはれると思ふ。
■連用名詞法
連用法に名詞法のあることはいふまでもない。たゞこゝに連用名詞法の語が他の接尾語とむすびつく事についてのべて見たい。
しに・す[#「しに・す」に傍線]、ゆき・す[#「ゆき・す」に傍線]の様なのはかれ・す[#「かれ・す」に傍線]、おい・す[#「おい・す」に傍線]、つき・す[#「つき・す」に傍線]のしに[#「しに」に傍線]、かれ[#「かれ」に傍線]、つき[#「つき」に傍線]が連用言であることを証拠立てゝゐる。これらのしにす[#「しにす」に傍線]、ゆきす[#「ゆきす」に傍線]、かれす[#「かれす」に傍線]、おいす[#「おいす」に傍線]、つきす[#「つきす」に傍線]などは体言としてす[#「す」に傍線]をうけてゐることは勿論であるとおもふ。
よぎ・る、わび・し、こひ・し、口語のゆれ・る、うけ(浮)・る、おき・るなども将然法ではなうて連用法であらうとおもはれる。
■終止名詞法
終止法の名詞となるといふことは従来多くの文法家にみとめられてをらぬ。けれども歴史仮字遣に於てすまふ[#「すまふ」に傍線]、かげろふ[#「かげろふ」に傍線]はすまひ[#「すまひ」に傍線]、かげろひ[#「かげろひ」に傍線]の音便であるというてすまう[#「すまう」に傍線]、かげろう[#「かげろう」に傍線]と訂正した人を見ない。本居翁は字音仮字用格に於てあさちふ[#「あさちふ」に傍線]とかかしふ[#「かしふ」に傍線]とかのふ[#「ふ」に傍線]はおふ[#「おふ」に傍線]の略であるというてゐられる。これが連体言であるとしても変である。翁の意はやはり終止言の名詞法をゆるしてゐられたものと見てよからうとおもふ。
全体終止言と連体言とをわけるのは上下二段四変格に応ずるためで、終止と連体とが区別あるのは職掌のちがひによつてある動詞はその形式がかはる、いはゞ形式の上の名にすぎない。形式の上の名であるものを直ちにとつてきて、その形式に於ては何らの区別もないある種の動詞について、これは終止だとか、これは連体だとか、名をことにしてよぶのは変なことである。四段活用の一元から諸種の活用が出来たものとすれば、そのいまだ四段活用ばかりの単純であつた時代には勿論終止と連体との区別がなかつたのである。チヤンバレン氏は古四段活用は終止と連体とが形をことにしてをつたのであるが、動詞全体の傾向が連体言と終止言とをば混同しようとするので、四段活用はすでにこれをわかたない。上下二段言も俗語に於てはこの区別を失うてをる。故にたゞこの一点に於てのみ二段言は四段言よりも古い形を存してをる(日本文法論、孫引)というてゐるけれども、比較的古い現存してゐる文献のうちで、連体言が終止言と同じ形である即ち終止言と連体言とはもと/\区別のあつたものでないといふことを証明してをる事実が多くみいだされる。これらの事実は日本動詞の最古形を示したものではないかも知れぬが、今日われ/\がそのあとをたどることの出来るものゝうちでは最も古いおもかげを存してをるものといはなければならない。(古事記の哭伊佐知流〔連用言はいさちなることは啼伊佐知伎也とあるのをもつてもわかるし、いさちる[#「いさちる」に傍線]は上に何由以《ナニシカモ》とあるから連体言であらうとおもはれる〕は、或は古活用が今日の文献に存してゐる上から見て最も古い形であらうとおもはれる四段活用よりも前の時代のかたみをたゞ一つ古事記の上にとゞめてゐるのではあるまいか。然ながらこれは到底容易に断言せられることではない。)いくたち[#「たち」に「太刀」の注記]、いく弓矢、なぐ矢、しかすがに(さすがに)、ゆきがてぬかも、こよなし(こゆなしであらう)、およすく(おゆは老の意ばかりでなく生長といふ意味があつたかも知れぬとおもはれる形跡がある)などの連体法と見るべきものが、みな終止言とおなじ形をとつてゐるではないか。かういへば或は連体の語尾のる[#「る」に傍線]がこれらの場合には省かつたのであるといふかも知れぬけれども、以上は九牛の一毛たるにすぎないので、古い所ではたくさん見えてゐる。これらを悉くる[#「る」に傍線]が省かつたものであるというたならば、即ちとりもなほさず文法は事実の上に基礎をおくべきもので空想の立場から考へ出すべきものではないから、つまりは一歩をゆづつてる[#「る」に傍線]をもつた形が連体法の古形であつたといふ考をいれるとしても、事実は事実であるからそれを以て古文献にいでたるる[#「る」に傍線]をともなはない終止形と同じ形の連体法をうちくづすことはできない。即ちむしろ連体法の古形は(われ/\が今日に於てさかのぼる事のできる限りの)終止言と同一形式をそなへてをつた。とりもなほさず終止法と連体法とを包含した終止法(?)であつたのだといへるとおもふ。
みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]といふ語はこのふゆ[#「ふゆ」に傍線]が殖ゆの意であつて、即ちみたまのふゆるであると考へて見てもおちつかぬ。やはりふゆ[#「ふゆ」に傍線]をばふゆる事といはずにふゆ[#「ふゆ」に傍線]というた所に勢が存してをるのである。
雫はしづく[#「しづく」に傍線]の終止法か連体法かは分別することが出来ないけれども、やはりまた終止と連体とをば包含した終止法から出たものであると考へるが適当であるまいか。
古浄瑠璃の四天王高名物語其の他にやまふ[#「やまふ」に傍線]の道とかやまふ[#「やまふ」に傍線]のためにとかいふ語が見えてゐるのは、やはりさういふ所から出たのではあるまいか。といふのは京阪地方の語では連体名詞をば(い[#「い」に傍線]の韻をふくんだ)う[#「う」に傍線]の韻にかへることをさけてゐる(たゞの連用法にはう[#「う」に傍線]の韻にかへて用ゐることは最も多い)。たとへば東京でおむこう[#「おむこう」に傍線]といふ所を大阪ではむかいさん[#「むかいさん」に傍線]といふ。この傾向は古浄瑠璃に遠からぬ時代の作物についても見ることができるのであるから、これはやまう[#「やまう」に傍線]ではなうてやはりやまふ[#「やまふ」に傍線]であらう。
けれども連体法と終止法とがある活用によつて別々な形式をとつたのも古いことであるから、この推論をすゝむるについてやはり別々にといておかうとおもふ。
また今日でも、あ[#「あ」に傍線]母音をもつて居ない上下二段活下一段さ行変格の動詞が他の接尾語と結びついて用言となる場合にあ[#「あ」に傍線]母音をふくんだ形をとるのは音韻の変化又は四段活、な、ら変格を類推するのであるといへばそれまでゞあるけれども、動詞活用の古形を論ずる場合に注意すべき事柄たるを失はない。
形容詞から出たよしむ[#「よしむ」に傍線]、かなしむ[#「かなしむ」に傍線]などはよし[#「よし」に傍線]、かなし[#「かなし」に傍線]で体言になつてをるので、よ・む[#「よ・む」に傍線]、よみ・す[#「よみ・す」に傍線]、かなし・がる[#「かなし・がる」に傍線]、かなしく・す[#「かなしく・す」に傍線]などゝ同じ意味で、とにかく終止言の名詞法である。
動詞について今少し方面をかへて考へてみると、つる[#「つる」に傍線]といふ語が終止段からす[#「す」に傍線]をよんでつる・す[#「つる・す」に傍線]となる。上二段のふる[#「ふる」に傍線]といふ語がす[#「す」に傍線]をうけてふる・す[#「ふる・す」に傍線]となる。ゆる・す[#「ゆる・す」に傍線]は下二段のゆる[#「ゆる」に傍線]から出たのである。
下二段のなゆ[#「なゆ」に傍線]といふ動詞がなゆ・む[#「なゆ・む」に傍線]とかなよ・る[#「なよ・る」に傍線](馴寄るといふ説はよからず)とかなよ・めく[#「なよ・めく」に傍線]とかなるのは終止言ではなからうか。あぐむ[#「あぐむ」に傍線]はあく・む、おすひ[#「おすひ」に傍線]、おそひ[#「おそひ」に傍線]は多分※[#「○/六」、448−2]にす[#「す」に傍線]をそへておす[#「おす」に傍線]として(おみの子はたへの袴を七重をし庭にたゝしてあゆひなだすも 日本紀)、それに更にふ[#「ふ」に傍線]をそへたおそふ[#「おそふ」に傍線]とかおすふ[#「おすふ」に傍線]とかいふ語の連用体言なのであらう。うもる[#「うもる」に傍線]はうむ[#「うむ」に傍線]といふ終止言にる[#「る」に傍線]がそはつたもの、大阪地方のことばでおぼう[#「う」に白丸傍点][#「おぼう[#「う」に白丸傍点]」に傍線]といふのはうむ[#「うむ」に傍線]にふ[#「ふ」に傍線]がそはつたものとおもはれる。前にいうたくづる[#「くづる」に傍線]、くづす[#「くづす」に傍線]のくづ[#「くづ」に傍線]ははたしてくゆ[#「くゆ」に傍線]とおなじ意味の動詞であつたとすれば、また終止法名詞を証拠だてゝゐるのである。同様にさくむ[#「さくむ」に傍線]の語根はさく[#「さく」に傍線]の終止法名詞であらう。
すぐす、おこす、おこる、はるく、こもる、およぼすも同様にすぐ、おく、はる、こむ、およぶの終止法名詞に種々の接尾語がついたものといふことがあきらかである。
かしつく意のいつく[#「いつく」に傍線]の終止法がし[#「し」に傍線]をよんでいつくし[#「いつくし」に傍線]となり、つゞいてうつくし[#「うつくし」に傍線]に転ずる。おそる[#「おそる」に傍線]の終止法からし[#「し」に傍線]をうけておそろし[#「おそろし」に傍線]となる。さもし[#「さもし」に傍線]といふ語は、今日さむ[#「さむ」に傍線]といふ語は見るによしないが、その連用法名詞とみられるさみ[#「さみ」に傍線]にす[#「す」に傍線]がついたさみす[#「さみす」に傍線]といふ動詞があるのをみれば、そのさむ[#「さむ」に傍線]といふ語の終止法でし[#「し」に傍線]をよんだものにちがひはない。につこ・らしい[#「につこ・らしい」に傍線]といふ語が古い大阪ことばのうちにあつた。これはあほらしいとか、いやらしいとか、きたならしいとかの推量の意ではないらしい[#「らしい」に傍線]がにつく[#「につく」に傍線]といふ終止についたのである。つぐ・なふ[#「つぐ・なふ」に傍線]はつぐ[#「つぐ」に傍線]といふ終止法名詞になふ[#「なふ」に傍線]がついたのではなからうか。ひこ・つら・ふ[#「ひこ・つら・ふ」に傍線]はひく[#「ひく」に傍線]の終止言につらふ[#「つらふ」に傍線]がついたものであらう。かういふ様な意味あひから接尾語として最も多く用ゐられるる[#「る」に
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