づる」に傍線]のしづ[#「しづ」に傍線]はどう説明するか。共通の語根しづ[#「しづ」に傍線]は非常に煩瑣な説明をまたねば、魚つりのしづ[#「しづ」に傍線]の説明を与へることが出来なくなる。下枝、後輪、下鞍、しづごゝろ、倭文みな同様である。しづごゝろ[#「しづごゝろ」に傍線]は、万葉では下心の字をかいてをる。これを木村博士はしたごゝろ[#「したごゝろ」に傍線]とよまねばならぬというてゐられるが、しづごゝろ[#「しづごゝろ」に傍線]とよむ方がよからうとおもふ。それは三代集あたりのしづごゝろ[#「しづごゝろ」に傍線]は通常静心と訳するけれど、これは少しどうかとおもふ。(勿論三代集以後には静心の意に用ゐてゐるけれど)友則の※[#歌記号、1−3−28]しづごゝろなく花のちるらん は従来など[#「など」に白ゴマ傍点]静心なく花のちるやらんと解してゐる。然しこれはよろしくないと助動詞らむ[#「らむ」に傍線]の性質の上から論じて、三矢先生が花の散るは静心なくてならんと説かれたのは面白い考ではあるけれども、先生はなど[#「など」に白ゴマ傍点]静心なくては理屈におちておもしろくないといはれたが、先生の解釈の方がなほ/\理屈におちて趣がない。少しわき路にはいるけれども、この時代の歌にはかういふらむ[#「らむ」に傍線](即ち無意味に現在をやはらげて想像の形をとつた)の例がたくさんある。※[#歌記号、1−3−28]……春がすみ立ちかくすらん山の桜を※[#歌記号、1−3−28]秋萩にうらびれをればあしびきの山下どよみ鹿のなくらむ などは、どうしても現在を柔げたものとしか見られない。めり[#「めり」に傍線]とかべし[#「べし」に傍線]とかがたゞの推量ではなく、推量の形をもつて現在をやはらげる事があるのと同じであらうといふ考で、先生に静心なく花の散ることぢやなあと解したらどうでございませうとお尋ねをしたことがある。が今思うてみれば、心もとなく花が散ることぢやなあと解するのが適当かとおもふ。貫之の※[#歌記号、1−3−28]ことならばさかずやはあらぬ桜花みるわれさへにしづこゝろなし といふ歌を、遠鏡に、見テヰルコチマデガ気ガソハ/\スルハイと解してあるけれど、さうではなくて、「ことならば」がわが身へもひゞいてゐて、桜が散る。それにつけてもわが身が心もとなくおもはれる。桜は気をうき立たすものぢやに却つ
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