られる如く、い・別きなし[#「い・別きなし」に傍線]、い・別けなし[#「い・別けなし」に傍線]とおもはれぬでもないけれど、いとけ[#「いとけ」に傍線]、いとき[#「いとき」に傍線]のいと[#「いと」に傍線]は幼い意〔いと姫君 紫式部日記、いと 京阪地方の語〕をふくんでをつて、これにけ[#「け」に傍線]とか、き[#「き」に傍線]とかゞついたものと見る方がよからうと思はれるから、これもなほ幼いといふ意であらう)。い・わ・く[#「い・わ・く」に傍線]は今日存してゐるこの動詞に甚しといふ意をあらはすなし[#「なし」に傍線]がついたと考へる方が正当だとおもふ。い[#「い」に傍線]が動詞の接頭語となることは、い・ゆ(行)く、い・さ(去)る、い・は(這)ふ(いはひもとほりうちてしやまむ 古事記)、い・の(宣)るなどを見ても明かであるから、わく[#「わく」に傍線]といふ動詞が実際あつたといふことは疑を容れる余地がないとおもふ。人はおゆ[#「おゆ」に傍線]が動詞なるに対してわかし[#「わかし」に傍線]が形容詞だといふことを不思議がる。動詞形容詞一元論者は一の屈強な拠り処としてこれを採用する。けれどもおゆ[#「おゆ」に傍線]に対してはわかゆ[#「わかゆ」に傍線]といふ動詞がある。わかし[#「わかし」に傍線]に対してはおほし[#「おほし」に傍線]の意のおし[#「おし」に傍線]といふ語がある。論理的観念の乏しかつた古人は大きいといふこととわかい(即ち小い)といふことを対比したのである。同時にこのおし[#「おし」に傍線]といふ語はをし[#「をし」に傍線]とも対比せられてをる。(お[#「お」に傍線]とを[#「を」に傍線]とによりて物の大小をあらはした事はいふまでもない。)或はおし[#「おし」に傍線]といふ様な形容詞はないといふ人があるかも知れぬ。けれども古事記を見ると、おしころわけ[#「おしころわけ」に「忍許呂別」の注記]、おしくま[#「おしくま」に「忍熊」の注記]王、忍穂井、忍坂などゝいふ語が多くみえて居る。このおし[#「おし」に傍線]については古事記伝にこれらのおし[#「おし」に傍線]を大《オホ》の意にといてある。橘曙覧はこれを難じて、大の意なるをおし[#「おし」に傍線]といふことあるまじく、はたその心ならんには直ちに大字をかゝるべきなり。同じ意なる語に文字を様々にかへてかゝれざる、古事記
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