傍線]・うつ[#「うつ」に傍線]・うつる[#「うつる」に傍線]・うつれ[#「うつれ」に傍線]と活く場合と、うつて[#「うつて」に傍線]・うつて[#「うつて」に傍線]・うつゝ[#「うつゝ」に傍線]・うつゝる[#「うつゝる」に傍線]・うつゝれ[#「うつゝれ」に傍線]と活く場合と、此二様がある。なげうつ[#「なげうつ」に傍線]は、ものを投げた時の音の聯想から、うちつける[#「うちつける」に傍点]に感じが固定した様であるが、古くはさうでなかつた。現在の語感から古語を解剖すると、往々誤りを生じる。此なげうつ[#「なげうつ」に傍線]も、たま[#「たま」に傍線]の信仰に照して見ると、どうして此語が出来たか、元の形が訣ると思ふ。
琉球の古語のすぢゆん[#「すぢゆん」に傍線]は、ものゝ中から生れ出ることを意味した語らしい。此は蘇生する・復活するなどに近い気分を持つた語である。日本のうつ[#「うつ」に傍線]にも、其がある。此すぢゆん[#「すぢゆん」に傍線]の語根すぢ[#「すぢ」に傍線]は、他界から来る神を表した語らしく、日本のたま[#「たま」に傍線]と略、同義語の様である。柳田先生は、此すぢ[#「すぢ」に傍線]を、我国の古語いつ[#「いつ」に傍線](稜威)と一つものに見られた。
いつ[#「いつ」に傍線]は「みいつ[#「いつ」に傍線]を祈りて」とか「いつ[#「いつ」に傍線]のちわきにちわきて」などの用語例に入つて来ると、多少内容が変つて来るが、ほんとうは、い[#「い」に傍線]列とう[#「う」に傍線]列とが近くて区別のなかつたとき、いつ[#「いつ」に傍線]ともうつ[#「うつ」に傍線]とも言うたらしく、ちはやぶる[#「ちはやぶる」に傍線]はいつはやぶる[#「いつはやぶる」に傍線]で、またうつはやぶる[#「うつはやぶる」に傍線]とも言うて、魂の荒ぶる方面を言うたのだが、其がいつか、神の枕詞になつてしまうた。恐らく、さうした暴威を振ふ神のあつたことを考へた事から出来た語であると思はれる。
とにかく、琉球のすぢ[#「すぢ」に傍線]と日本のうつ[#「うつ」に傍線]とは、おなじ意味の言葉である。すだつ[#「すだつ」に傍線]は、巣に聯想が向いた為に、巣立つ[#「巣立つ」に傍線]と説いて、主として鳥を聯想するやうになつたが、語根 stu である事を考へれば、すだつ[#「すだつ」に傍線]・そだつ[#「そだつ
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