霊魂の話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)却々《なかなか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たま[#「たま」に傍線]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)秦[#(ノ)]河勝

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)追ひ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]と
たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]とは、近世的には、此二つが混乱して使はれ、大ざつぱに、同じものだと思はれて居る。尤、中には、此二つに区別があるのだらうと考へた人もあるが、明らかな答へはない様である。私にもまだ、はつきりとした説明は出来ないが、多少の明りがついた。其を中心に話を進めて見たいと思ふ。
古く日本人が考へた霊魂の信仰は、後に段々変つて行つて居る。民間的に――知識の低い階級によつて――追ひ/\に組織立てられ、統一づけられた霊魂の解釈が加はつて行つた為だと思ふ。だから其中から、似寄つたものをとり出して、一つの見当をつける事は、却々《なかなか》困難であるが、先大体、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]とは、違ふものだと言ふ見当だけをつけて、此話を進めたい。いづれ、最初にたま[#「たま」に傍線]の考へがあつて、後にたましひ[#「たましひ」に傍線]の観念が出て来たのだらう、と言ふ所に落ちつくと思ふ。
       たま[#「たま」に傍線]の分化――神ともの[#「もの」に傍線]と
日本人のたま[#「たま」に傍線]に対する考へ方には、歴史的の変化がある。日本の「神」は、昔の言葉で表せば、たま[#「たま」に傍線]と称すべきものであつた。それが、いつか「神」といふ言葉で飜訳せられて来た。だから、たま[#「たま」に傍線]で残つて居るものもあり、神となつたものもあり、書物の上では、そこに矛盾が感じられるので、或時はたま[#「たま」に傍線]として扱はれ、或所では、神として扱はれて居るのである。
たま[#「たま」に傍線]は抽象的なもので、時あつて姿を現すものと考へたのが、古い信仰の様である。其が神となり、更に其下に、もの[#「もの」に傍線]と称するものが考へられる様にもなつた。即、たま[#
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