「たま」に傍線]に善悪の二方面があると考へるやうになつて、人間から見ての、善い部分が「神」になり、邪悪な方面が「もの」として考へられる様になつたのであるが、猶、習慣としては、たま[#「たま」に傍線]といふ語も残つたのである。
先、最初にたま[#「たま」に傍線]の作用から考へて見る。
我々の祖先は、もの[#「もの」に傍線]の生れ出るのに、いろ/\な方法・順序があると考へた。今風の言葉で表すと、其代表的なものとして、卵生と胎生との、二つの方法があると考へた。古代を考へるのに、今日の考へを以てするのは、勿論いけない事だが、此は大体、さう考へて見るより為方がないので、便宜上かうした言葉を使ふ。此二つの別け方で、略よい様である。
胎生の方には大して問題がないと思ふから、茲では、卵生に就いて話をする。さうすると、たま[#「たま」に傍線]の性質が訣つて来ると思ふ。
なる[#「なる」に傍線]・うまる[#「うまる」に傍線]・ある[#「ある」に傍線]
古いもので見ると、なる[#「なる」に傍線]と言ふ語で、「うまれる」ことを意味したのがある。なる[#「なる」に傍線]・うまる[#「うまる」に傍線]・ある[#「ある」に傍線]は、往々同義語と考へられて居るが、ある[#「ある」に傍線]は、「あらはれる」の原形で、「うまれる」と言ふ意はない。たゞ「うまれる」の敬語に、転義した場合はある。万葉などにも、此語に、貴人の誕生を考へたらしい用語例がある。けれども、厳格には、神聖なるものゝ「出現」を意味する言葉であつて、貴人に就いて「みあれ」と言うたのも、あらはれる[#「あらはれる」に傍線]・出現に近い意を表したと見られるのである。即、永劫不滅の神格を有する貴人には、誕生と言ふ事がない。休みからの復活であると信じたのである。ある[#「ある」に傍線]が「うまれる」の敬語に転義した訣が、そこにある。
うまる[#「うまる」に傍線]の語根は、うむ[#「うむ」に傍線]である。うむ[#「うむ」に傍線]は「はじまる」と関係のある語らしい。うぶ[#「うぶ」に傍線]から出て居る形と見られる。此に対して、なる[#「なる」に傍線]と言ふ語がある。ある[#「ある」に傍線]は、形を具へて出て来る、即、あれいづ[#「あれいづ」に傍線]であるが、なる[#「なる」に傍線]は、初めから形を具へないで、ものゝ中に宿る事に使はれて
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