はおらんさん[#「おらんさん」に傍線]の事で、さすかさ[#「さすかさ」に傍線]も、翳《サ》し蔽ふ笠の事だと言ふ説がある。笠が最後に王城の庭に樹ち、王始め群臣の集つて見て居る前で、おらんさん[#「おらんさん」に傍線]が、三十余り立つて踊る。即、人間が神の姿を装うて居るのだが、其間は、すべての人間は、其仮装者に神格を認め、仮装者自身も、其間は神であると言ふ信念を有つて行動するのである。
島尻郡の知念《チネン》には、昔、うふぢちう[#「うふぢちう」に傍線](大神宮)と言ふ人があつた。ちう[#「ちう」に傍線]とは、睾丸の義で、うふぢ[#「うふぢ」に傍線]は大の義である。此人の子が、また、大豪傑であつた。うふぢちう[#「うふぢちう」に傍線]の死後棺の蓋を取つて見ると、屍体は失くなつて居て、柴の葉が残つて居た。此は、昇天したのだと言うて居る。此人は、琉球神道記によると、実在の人物ではなく、海神であると見えて居る。此海神は、大きな睾丸を有つて居て、肩に担いで歩く。此頃では、国頭郡の方へ行つて居ると言ふ。どう言ふ訣か、解説に苦しむ事柄である。此海神の子孫が、現在|字《あざ》をなして残つて居る。
正式に首里王朝で認めて居る神の中に、変な神がある。其神の根本は、天から来る神と、海から来る神とに分つが、先島《サキジマ》辺りは、此分け方は、行はれて居ない。此分け方は、民間信仰に基礎を置いたものであるが、島々の見方によると、多少の相違がある。琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのまゝの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽《オタケ》になつて居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いてゐる。此は、死後七代目にして神となると言ふことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習はしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするやうになつた為に、墓を造つて財産を失ふ人が多くなつた。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか[#「くりばか」に傍線])と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓《クリバカ》は拝所となる。此拝所ををがん[#「をがん」に傍線]と言ふ。時代を経るに従つて、他の人々も拝する様になる。此|拝所《ヲガン》が、恐しい場所になつて来る。拝所《ヲガン》を時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊《コチマブイ》と言ふ。
琉球神道の上に見える神々は、現にまだ万有神である。恐しいはぶ[#「はぶ」に傍線]は、山の神或は、山の口(蝮《クチ》か)として、畏敬せられ、海亀・儒艮《ジユゴン》(ざん=人魚)も、尚神としての素質は、明らかに持つてゐる。地物・庶物に皆、霊があるとせられ、今も島々では、新しい神誕生が、時々にある。
而も其中、最大切に考へられてゐるのは、井《カア》の神・家の神・五穀の神・太陽神・御嶽の神・骨霊《コチマブイ》などである。大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があつて、道の島では、霊石に、いびがなし[#「いびがなし」に傍線]〔神様〕といふ風な敬称を与へてゐる処もある。又一般に、霊石をびじゅる[#「びじゅる」に傍線]といふのも「いび」を語根にしてゐるので、琉球神道では、石に神性を感じる事が深く、生き物の石に化した神体が、沢山ある。井《カア》の神として、井の上に祀られてゐるものは、常に変つた形の鐘乳石である。此をもびじゅる[#「びじゅる」に傍線]と言うてゐる。ある人の説に、びじゅる[#「びじゅる」に傍線]は海神だとあるが、疑はしい。家の神の代表となつてゐるのは、火の神《カン》である。此亦、三個の石を以て象徴せられて、一列か鼎足形かに据ゑられてゐる。巫女の家や旧家には、おもな座敷に、片隅の故《ことさ》らに炉の形に拵へた漆喰塗りの場処に置く。普通の家では、竈の後の壁に、三本石を列べて、其頭に塩・米などの盛つてあるのを見かける。火の神の祭壇は、炉であつて、而も家全体を護るものと考へられてゐるのである。家があれば、火の神のない事はなく、どうかすれば、神社類似の建造物の主神が皆、火の神である様に見える。巫女の家なる祝女殿内《ノロドノチ》、一族の本家なる根所《ネドコロ》の殿《トオン》、拝所になつてゐる殿《トオン》、祭場ともいふべき神あしゃげ[#「神あしゃげ」に傍線]、皆火の神のない処はない。併し恐らくは、火の神の為に、建て物を構へたのは一つもなく、建て物あつて後に、火の神を祀る事になつたので、某々の家の宅《ヤカ》つ神、と考へて来たのに違ひない。
火の神と言ふ名は、高級巫女の住んでゐる神社類似の家、即、聞得大君御殿《チフイヂンオドン》・三平等《ミヒラ》の「大阿母《ウフアム》しられ」の殿内《トヌチ》では、お火鉢の御前《オマヘ》と言ふ事になつて居た。
尚《シヤウ》王家の宗廟とも言ふべき聞得大君御殿《チフイヂンオドン》並びに、旧王城正殿|百浦添《モンダスイ》の祭神は、等しく御日《オチダ》・御月《オツキ》の御前《オマヘ》・御《オ》火鉢の御前《オマヘ》(由来記)であるが、女官|御双紙《オサウシ》などによると、御《オ》すぢの御前《オマヘ》・御火鉢の御前《オマヘ》・金の美御《ミオ》すぢの御前《オマヘ》の三体、と言ふ事になつて居る。伊波普猷氏は、御《オ》すぢの御前《オマヘ》を祖先の霊、御火鉢の御前《オマヘ》を火の神、金の美御すぢを金属の神と説いて居られる。前二者は疑ひもないが、金の美おすぢ[#「金の美おすぢ」に傍線]は、日月星辰を鋳出した金物の事かと思はれる節〔荻野仲三郎氏講演から得た暗示〕がある。併し語どほりに解すると、かね[#「かね」に白丸傍点]は、おもろ[#「おもろ」に傍線]・おたかべ[#「おたかべ」に傍線]の類に、穀物の堅実を祝福する常套語で、又かねの実《ミ》ともいふ。みおすぢ[#「みおすぢ」に傍線]の「み[#「み」に白丸傍点]」が「実《ミ》」か「御《ミ》」かは判然せぬが、いづれにしても、穀物の神と見るべきであらう。或は、由来記を信じれば、月神が穀物の神とせられてゐる例は、各国に例のあること故、御月《オツキ》の御前《オマヘ》に宛てゝ考へることが出来さうである。
御すぢの御前[#「御すぢの御前」に傍線]は、琉球最初の陰陽神たるあまみきょ[#「あまみきょ」に傍線]・しねりきょ[#「しねりきょ」に傍線]の親神なる太陽神即、御日《オチダ》の御前《オマヘ》を、祖先神と見たのだと解釈せられよう。琉球神道の主神は、御日《オチダ》の御前《オマヘ》で、やはり太陽崇拝が基礎になつてゐる。国王を、天加那志《チダカナシ》(又は、おちだがなし、首里ちだがなし)と言ふのも、王者を太陽神の化現即、内地の古語で言へば、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]と見たのであるらしい。
祖先崇拝の盛んな事、其を以て、国粋第一と誇つてゐる内地の人々も、及ばぬ程である。旧八月から九月にかけて、一戸から一人づゝ、一門中一かたまりになつて遠い先祖の墓や、一族に由緒ある土地・根所、其外の名所・故跡を巡拝して廻る神拝みと言ふ事をする。首里・那覇辺から、国頭《クニガミ》の端まで出かける家すらある。単に此だけで、醇化せられた祖先崇拝と言ふ事は出来ない。常に其背後には、墓に対する恐怖と、死霊に対する諂《コ》び仕への心持ちが見えてゐる。

     六 神地

琉球神道では、神の此土に来るのは、海からと、大空からとである。勿論厳密に言へば、判然たる区別はなくなるのであるが、ともかく此二様の考へはある様である。空から降ると見る場合を、あふり[#「あふり」に傍線]・あをり[#「あをり」に傍線]・あもり[#「あもり」に傍線]など言ふ。皆|天降《アモ》りと一つ語原である。山や丘陵のある場合には、其に降るのが、古式の様だが、平地にも降る事は、間々ある。但、其場合は喬木によつて天降るものと見たらしい。蒲葵《クバ》(=びらう)の木が神聖視されるのは、多く此木にあふり[#「あふり」に傍線]があると見たからである。蒲葵の木が、最神聖な地とせられてゐる御嶽《オタケ》の中心になり、又さなくともくば[#「くば」に傍線]・こぼう[#「こぼう」に傍線]・くぼう[#「くぼう」に傍線]など言ふ名を負うた御嶽の多いのは、此信仰から出たのである。
神影向の地と信じて、神人の祭りの時に出入《でいり》する外、一切普通の人殊に男子を嫌ふ場処が、御嶽《オタケ》である。神は時あつて、此処に凉傘《リヤンサン》を現じて、其下にあふる[#「あふる」に傍線]のである。首里王朝の頃は、公式に凉傘《リヤンサン》の立つ御嶽と認められて居たものは、極つて居た。併し、間切々々《マギリ/″\》の御嶽の神々も、凉傘《リヤンサン》を下してあふる[#「あふる」に傍線]のが、古風なのである。御嶽のある地を、普通|森《モリ》といふ。「もり」は丘陵の事である。高地に神の降るのが原則である為の名に違ひない。其が、内地の杜《モリ》と同じ内容を持つ事になつたのである。
神は御嶽《オタケ》に常在するのではないが、神聖視する所から、いつでも在《イマ》す様に考へられもする。内地の杜々《モリ/\》の神も、古くは社を持たなかつたに相違ない。三輪の如きは「三輪の殿戸」の歌を証拠として、社殿の存在した事を主張する人も出て来たが、あの歌だけでは、此までの説を崩すまでにはゆかぬ。杜《モリ》・神南備《カムナビ》などは、社殿のないのが本体で、社あるは、家《ヤカ》つ神《ガミ》或は、梯立で昇り降りするほくら[#「ほくら」に傍線]の神から始まるのである。社ある神と、ない神とが、同時に存在したのは、事実である。社殿に斎《いつ》かなかつた神は、恐らく御嶽と似た式で祀られてゐたものであらう。
処によつては、極めて稀に、御嶽の中に、小さな殿を作つてゐる処もある。此は必、祭儀の必要から出来たもので、神の在り処でないであらう。
御嶽は、神人《カミンチユ》の外は入れない地方と、女ならば出入を自由にしてあるところとがある。女には、神人となる事の出来る資格を認めるからと思はれる。どの地方でも、男は絶対に禁止である。島尻の斎場《サイフア》御嶽でも、近年までは、女装を学ばねば這入れぬ事になつてゐた。
大きな御嶽《オタケ》なら、其中に、別に歌舞《アソビ》をする場処がある。久高の仲の御嶽《オタケ》の如きが其である。併し多くは、其為に神あしゃげ[#「神あしゃげ」に傍線]がある。
神あしゃげ[#「神あしゃげ」に傍線]多くは、神あさぎ[#「神あさぎ」に傍線]と言ふ。神あしあげ[#「神あしあげ」に傍線]の音転である。建て物の様式から出た名であらう。此建て物は、原則として、柱が多く、壁はなく、床を張らぬ事になつてゐる。天地根元宮造りの、掘《ホ》つ立ての合掌式の、地上に屋根|篷《トマ》の垂れたのから、一歩進めたものであらう。古式なのは、桁行《ケタユキ》長く、梁間《ハリマ》の短い三尺位の高さのもので、地に掘つ立てた数多い叉木《マタギ》で、つき上げた形に支へられてゐる。つまり伏せ廬の足をあげたものであるからの名と思はれる。此式は国頭《クニガミ》地方に多いが、外の地方は、大抵屋根は瓦葺き、柱は厚さの薄い物に、緯《ヌキ》を沢山貫いて、柱間一つだけを入り口として開けてゐる。勿論丈も高くなつて、屈むに及ばない。中はたゝき[#「たゝき」に傍点]になつて居て、一隅に火の神の三つ石を、炉の形にした凹みに据ゑてある。大抵|御嶽《オタケ》からは遠く、祝女殿内《ノロドンチ》からは近い。御嶽《オタケ》に影向あつたり、海から来た神を迎へて、此処で歌舞《アソビ》をする。其中では、祝女《ノロ》を中心に、根神おくで[#「根神おくで」に傍線]其他の神人《カミンチユ》が定まつた席順に居並ぶ。其中のあすびたもと[#「あすびたもと」に傍線]と言ふ神人《カミンチユ》が、のろ[#「のろ」に傍線]等の謳ふ神歌《オモロ》(おもろ双紙[#「おもろ双紙」に傍線]の内にあるものでなく、其地方々々の神人の間に伝承してゐるもの)で、舞ふのである。舞ふのは勿論、右のあしゃげ[#「あし
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング