に噛まれて死んだ後、空に声あつて、ぎらいかない[#「ぎらいかない」に傍線]に往つた由、神託があつた。而も、大屋子《ウフヤコ》の亡骸は屍解してゐたのである。天国同時に、海のあなたといふ暗示が此話にある様である。(国学院大学郷土研究会での柳田先生の話)
昔の書物や伝承などから、楽土は、神と選ばれた人とが住む所とせられたやうである。六月の麦の芒《ノギ》が出る頃、蚤の群が麦の穂に乗つて儀来河内《ギライカナイ》からやつて来ると考へられてゐる。此は、琉球地方では蚤の害が甚しい為、其が出て来るのを恐れるからである。儀来河内は、善い所であると同時に悪い所、即、楽土と地獄と一つ場所であると考へ、神鬼共存を信じたのである。
儀来は多く、にらい[#「にらい」に傍線]・にらや[#「にらや」に傍線]・にれえ[#「にれえ」に傍線]・ねらや[#「ねらや」に傍線]など発音せられ、稀には、ぎらい[#「ぎらい」に傍線]・けらい[#「けらい」に傍線]など言はれてゐる。河内は、かない[#「かない」に傍線]・かなや[#「かなや」に傍線]・かねや[#「かねや」に傍線]と書く事がある。国頭《クニガミ》地方ではまだ、儀来《ギライ》に海の意味のあることを忘れずにゐる。謝名城《ジナグスク》(大宜味《オホギミ》村)の海神祭《ウンジヤミ》のおもろ[#「おもろ」に傍線]には「ねらやじゆ〔潮〕満《サ》すい、みなと〔湊〕じゆ満《ミチ》ゆい……」とあつて、沖あひの事を斥《さ》すらしい。那覇から海上三十海里にある慶良間《ケラマ》群島も洋中遥かな島の意らしく思はれる。かない[#「かない」に傍線]は、沖に対する辺で、浜の事ではなからうか。かな[#「かな」に傍線]・かね[#「かね」に傍線]で海浜を表す例が多いから。つまりは、沖から・辺からと言ふ対句が、一語と考へられて、神の在《いま》す遥かな楽土と言ふ事になつたのであるまいか。さうして其|儀来河内《ギライカナイ》から、神が時を定めて渡つて来る、と考へてゐる。其場合、其神の名をにれえ神がなし[#「にれえ神がなし」に傍線]と称へてゐる。
先島では、にいるかない[#「にいるかない」に傍線]を地の底と考へてゐる。にいる[#「にいる」に傍線]に、二色を宛てゝゐる。毎年六七月の頃、のろ[#「のろ」に傍線]の定めた干支の日、にいるかない[#「にいるかない」に傍線]から二色人《ニイルピト》が出て来ると言ふ信仰が、八重山を中心として小浜・新城・古見の三島に行はれてゐる。石垣《イシガキ》島の宮良《メイラ》村には、なびんづう[#「なびんづう」に傍線]と言ふ洞穴があつて、祭りの日には、此穴から二色人《ニイルピト》が現れて来ると言はれてゐる。
此祭りは、少年を成年とする儀式で、昔は二色人《ニイルピト》が少年に対《むか》つて色々の難題を吹きかけたり、踊らしたりしたといふ。にいるぴと[#「にいるぴと」に傍線]は、それ/″\赤と黒との装束をしてゐたので、二色人と言うたのだと言ふが、他の島では一定した色はない。今は二色人を奈落人と考へてゐる。沖縄の言葉は、日本語と同じく、語部に伝誦せられた神語・叙事詩から出たものが多い。だから、対句になつてゐる儀来河内《ギライカナイ》も其例の一つと見てよい。
沖縄本島から北の鹿児島県に属する道の島々並びに、伊平屋《イヘヤ》島に亘つては、其浄土を、なるこ国[#「なるこ国」に傍線]・てるこ国[#「てるこ国」に傍線]と言うてゐる。其処から来る神の名を、なるこ神[#「なるこ神」に傍線]・てるこ神[#「てるこ神」に傍線](又、ちりこ神[#「ちりこ神」に傍線])と言ふ。なるこ[#「なるこ」に傍線]は勿論、にらい[#「にらい」に傍線]系統の語であらう。此|伊平屋《イヘヤ》島は南北の島々の伝承を一つに集めてゐる様に見える場所で、沖縄本島近辺と同じく、にらいかない[#「にらいかない」に傍線]を信じ、にらい神[#「にらい神」に傍線]・かないの君真者《キムマムン》[#「かないの君真者《キムマムン》」に傍線]の名を言ふと共に、なるこ神[#「なるこ神」に傍線]・てるこ神[#「てるこ神」に傍線]を言ふ。其ばかりか、まやの神[#「まやの神」に傍線]・いちき神[#「いちき神」に傍線]といふ名称をさへ、右の海を渡つて来る神に、命《ナヅ》けてゐる。
まやの神[#「まやの神」に傍線]は、石垣島で六月の頃行ふ穂利《フリ》の祭りの日に、ともまやの神[#「ともまやの神」に傍線]を連れて家々を祝福して歩く神である。此神には勿論、村の青年が仮装するのであるが、村人は、神である事を信じてゐる。手四箇では盆の四日間にあんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]が来る。もとは芭蕉の葉で面を裹《つつ》んでゐたが、今は許されなくなつて薄布を以てする。また、老人の神うしゅめい[#「うしゅめい」に傍線](おしゅまい[#「おしゅまい」に傍線])・老婆の神あつぱあ[#「あつぱあ」に傍線]に連れられて来る亡者の群もある。此等は皆、同一系統のもので、後生《グシヨ》から来ると言ふ。後生《グシヨ》は、地方に依つては墓の意味に用ゐられてゐる。まやの神[#「まやの神」に傍線]は、何処から来るか、訣らない。まや[#「まや」に傍線]には猫の義があるが、此処ではそれではないらしく、土地の名であらう。此信仰は台湾に亘つて、阿里山蕃族が、ばく/″\わかあ山[#「ばく/″\わかあ山」に傍線]或はばく/″\やま[#「ばく/″\やま」に傍線]から出て、分れて一つはまやの国[#「まやの国」に傍線]へ行つたと言ふ伝説があるから、琉球の南方でも、恐らくまや[#「まや」に傍線]を楽土と観じてゐたのであらう。
なるこ・てるこ[#「なるこ・てるこ」に傍線]は、北方|即《すなはち》道の島風であり、まや[#「まや」に傍線]・いちき[#「いちき」に傍線]は南方、先島《サキジマ》風の呼び名である。而も更に驚くのは、やはり右の渡り神を、場合によつては、あまみ神[#「あまみ神」に傍線]とも言うてゐる事である。あまみ[#「あまみ」に傍線]は、言ふまでもなく、琉球の諾冉二尊とも言ふべきあまみきょ[#「あまみきょ」に傍線]・しねりきょ[#「しねりきょ」に傍線]の名から来てゐるのである。あまみきょ[#「あまみきょ」に傍線]・しねりきょ[#「しねりきょ」に傍線]は、沖縄本島の東海岸、久高《クダカ》・知念《チネン》・玉城《タマグスク》辺に、来りよつたと言ふ事になつてゐるが、其名はやはり、浄土を負うてゐるものと見られる。ぎょ[#「ぎょ」に傍線]・きょう[#「きょう」に傍線]・きゅう[#「きゅう」に傍線]などは、人《チユ》から出た神の接尾語で、あまみ[#「あまみ」に傍線]・しねり[#「しねり」に傍線]が神の国土の名である。其を実在の島に求めて、奄美《アマミ》大島の名称を生んだものであらう。しねり[#「しねり」に傍線]に、儀来(ぎらい・じらい)との関係が見えるばかりか、あまみ[#「あまみ」に傍線]のあま[#「あま」に傍線]には、儀来同様、海なる義が窺はれるのである。
決して合理的な解釈を下す事は出来ない。北方、奄美《アマミ》大島から来た種族が、沖縄の開闢をなしたと考へるのは、神話から孕んだ古人の歴史観を、其儘に襲うた態度である。あまみ[#「あまみ」に傍線]・しねり[#「しねり」に傍線]は、やはりにらい・かない[#「にらい・かない」に傍線]、なるこ・てるこ[#「なるこ・てるこ」に傍線]同様に、信仰の上の理想国に過ぎないのであらう。まや[#「まや」に傍線]・いちき[#「いちき」に傍線]と言ふ語も、同音聯想は違つた説明をも導く様であるが、やはり南方での、儀来河内《ギライカナイ》なのであらう。楽土の主神の名のあがるい[#「あがるい」に傍線]は、東方《アガリ》と言ふ意を含んでゐる。東海の中に、楽土を観じた沖縄本島の人の心持ちが見える。
此外に尚一つ、天国の名として、おぼつかぐら[#「おぼつかぐら」に傍線]と言ふのがあつた様である。混効験集には「天上の事を言ふ。いづれも首里王府神歌御双紙に見ゆ」とある。天帝(太陽神)の居る天城で、あまみきょ[#「あまみきょ」に傍線]・しねりきょ[#「しねりきょ」に傍線]も其処から来たものである。併し、此も「……雨欲しやに、水欲しやに、おぼつ通ちへ、かぐら通ちへ、にるやせぢ、かなやせぢ、まきょにあがて、くたにあがて……」などあるのを見ると、此語のなりたちも、大体は想像がつく。
屍解して昇天する話は、限りなくある。此は選ばれた人ばかりが、儀来河内《ギライカナイ》に入るとせられた考へから出たのである。善縄大屋子《ヨクツナウフヤコ》の様なのもあるが、大抵は神人の上にある事なのである。のろ[#「のろ」に傍線]に限つて、洗骨せぬ地方もあり、洗骨しても多くは、家族と同列に骨甕を列べないのを原則としてゐるのは、屍解昇天する人と然らざる者とを区別したので、若し此に反くと、神人昇天出来ぬ為に、祟る事があると考へられてゐたのであらう。此事は我内地の文献にも、同様の例を留めてゐる。
五 神々
琉球の神々を、天神と海神とに分つ。此等に関した文書は、琉球神道記の他に、球陽がある。球陽を漢訳したものが、中山世鑑である。
琉球の王室で祀つた神を、君真者《キムマムン》と言ふ。真者《マムン》とは、尊者の称呼である。此を正しい文法にすると、真者君と言ふことである。琉球の神々と、内地の神々との最甚しい差異点は、琉球の神々は、時々出現することである。此出現を、新降(あらふり)と言ふ。球陽の説では、君真者《キムマムン》は、天神と海神との二つで、色々の神々を、此二つに分類して居る。此神々は、年に一度出現する神もあれば、三十年に一度出現する神もあり、一年の間に度々出現する神もある。其中で、最著しい神は、与那原《ヨナバル》のみおやだいり[#「みおやだいり」に傍線](御公事)の神である(中山世鑑)。この神は、琉球の王廟の中に祭祀する。其祭祀する者は、此国第一位の女神官である。天子の代の替る毎に、聞得大君《チフイヂン》が出来る。首里より一里程海岸の与那原《ヨナバル》に聞得大君が行く時に、与那原のみおやだいり[#「みおやだいり」に傍線]の神が現れる。みおやだいり[#「みおやだいり」に傍線]は、其神に奉仕するのであつて、其祭りに奉仕する時は、此を神と認めて儀礼を行ふのである。
毎年、夏の盛りに出現する神を、きみてすり[#「きみてすり」に傍線]と言ふ。此神は、仕官を司る神で、沖縄本島の北方にある辺土(ふいど)に出現する。此神の出現する時は此御嶽に神の笠が降《オ》り、其附近の今帰仁《ナキジン》にも笠が降りる。此笠をらんさん[#「らんさん」に傍線]と言つてゐる。此は、天蓋の如きもので、其を樹てると、神その蔭に現ると信じて居る。此らんさん[#「らんさん」に傍線]の天降(あふり[#「あふり」に傍線]又はあほり[#「あほり」に傍線])の時に言ふ言葉を、おもろ[#「おもろ」に傍線]と言ふ。柳田先生は、あふり[#「あふり」に傍線]とおもろ[#「おもろ」に傍線]と、同一であらうと説明されて居る。此おもろ[#「おもろ」に傍線]が、朝廷に伝はり、地方にも自然的に伝播する。即、地方の神官の家には、代々伝へられて、保存せられてゐた。
此を考へて見ると、太陽信仰の存する処には、笠はつきものなのである。琉球の大切な神を、おちだがなし[#「おちだがなし」に傍線]と言ひ、ちだ[#「ちだ」に傍線]と略称して居る。台湾には、みさちだ[#「みさちだ」に傍線]と言ふ太陽神がある。笠の観念は、月が暈《かさ》を着ると言ふ信仰によるものと、尊い神に直接あたらぬ様にすると言ふ、二つの信仰が、合したものであるらしい。
琉球の女官・后・下々の女官・神職に到るまでの事柄は、女官御双紙に載つて居る。神職の名前の中で、今帰仁《ナキジン》の神職に、あふりあぇ[#「あふりあぇ」に傍線]と称して居る者がある。又一地方に、さすかさのあじ[#「さすかさのあじ」に傍線]と言ふ者がある。あじ[#「あじ」に傍線]は按司(朝臣)であると言ふ。あふり[#「あふり」に傍線]
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